平成27年10月16日(金)  目次へ  前回に戻る

しっぽが重いでモンキ。乗っ取られているのかモンキ。

昨日は肝冷斎HP開設11周年の記念日であったが当の肝冷斎がいなくなってしまっているので、更新はできなかったようである。さしも栄華を誇った肝冷斎族もこうなってしまっては哀れなものでちゅじゃのう。

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龍洞山農先生がいうに、

知者勿謂、我尚有童心可也。

知る者は、我なお童心有るも可なり、と謂うなかれ。

真理を知るひとは、「自分にはまだコドモの心があるが、まあいいだろう」などと言ってはならない。

と。

龍洞山農先生は賢者だと思うが、コドモ心を持つことを否定するこの言葉は間違っている。

なぜか。

夫童心者、真心也。

それ、童心なるものは真心なり。

そう、コドモの心というのはマゴコロであるからだ。

ならば、

若以童心為不可、是以真心為不可也。

もし童心を以て可ならずと為せば、是以て真心も可ならずと為すなり。

もしもコドモ心をもって「ダメだ」とすると、同時にマゴコロもまた「ダメだ」ということになってしまう。

夫童心者絶仮純真、最初一念之本心也。若失却童心、便失却真心、失却真心、便失却真人。人而非真、全不復有初矣。

それ、童心なるものは仮を絶して真に純にして、最初一念の本心なり。もし童心を失却せばすなわち真心を失却し、真心を失却せばすなわち真人を失却すなり。人にして真にあらずんば、すべてまた初め有らざるなり。

そして、コドモ心というのは、いつわりを断ち切った最初の一念の本当のキモチである。もしもこのコドモ心を失ったら、マゴコロを失うことになり、マゴコロを失ったら、もうマトモなニンゲンであることはできなくなるのだ。ニンゲンでありながらマトモでないなら、もう二度と最初に戻ることはできないのだ。

最初に戻れないのはまずいでちゅよ。

童子者、人之初也、童心者、心之初也。夫心之初曷可失也。

童子なるものは人の初めなり。童心なるものは心の初なり。それ、心の初、なんぞ失うべけんや。

コドモというのはニンゲンの初めであり、コドモ心というのは心の初めである。心の初めは、どうして失っていいものだろうか。

この大切な童心をどうしてひとは失ってちまうのかちら。

幼いころは見たこと、聞いたこと、さらに長じてからはどれが正しいとか正しくないとかいう道理も耳から目から入ってくる。こうして童心は失われていくのだ。・・・・(中略)・・・・

こうしてコドモはついに仮人ニセニンゲン)となってしまうのである。ニンゲンがニセならば、もはやニセならざるところはない。ニセのコトバでニセニンゲンと語らえば、ニセニンゲンは喜ぶだろう、ニセの物事をニセニンゲンに話せば、ニセニンゲンはまた喜ぶだろう。ニセ文章でニセニンゲンと談ずればニセニンゲンはやはり喜ぶだろう。ニセならざるところなく、しかして喜ばざるところ無し。

満場是仮、矮人何弁也。

満場これ仮にして、矮人何をか弁ぜん。

周囲のあらゆるものがニセである中で、ちっぽけなニンゲンに何が語り得ようか。

世界的に貴重な文学作品でありながら、ニセニンゲンたちに消されて後の世に伝わらなかったものも少なくないのである。

天下之至文、未有不出于童心焉者也。

天下の至文はいまだ童心に出でざる者あらざるなり。

世界的に貴重な文学作品の中に、コドモ心から生まれてきたのではないものなど、存在しないのだ。

伝奇小説や院本・雑劇、「西廂記」「水滸伝」などは童心の文学なんです。しかし、聖人が書いたとか語ったとかいう書経・詩経・易経・春秋・礼の「五経」や「論語」や「孟子」は、聖人が当時のぼんやりした弟子(「懜憧弟子」)や、とぼけた門生(「迂闊門徒」)のために病を治す薬として与えたものであって、万世の真理などというものではない。

五経、語、孟、乃道学之口実、仮人之淵藪也、断断乎其不可以語於童心之言明矣。

五経・語・孟、すなわち道学の口実、仮人の淵藪なり、断断乎(だんだんこ)としてその以て童心の言において語るべからざるものなること、明らかなり。

「五経」や「論語」や「孟子」は、すなわち儒学末流たる道学者たちにとっては口の中に入れる食べ物であり、ニセニンゲンたちにとっては(魚や鳥を捕る)淵や藪(のような生計の種)に過ぎないのだ。ぜったいのぜったいに、決してコドモ心の文学の中に入れて、議論すべき対象ではないこと、明々白々だ。

嗚呼。吾又安得真正大聖人童心未曾失者而与之一言文哉。

嗚呼。われまたいずくんぞ真正の大聖人の童心いまだかつて失わざる者を得て、これと文を一言せんか。

ああ。わしはどこかでいつか、ほんとのほんとの大聖人さま―――コドモ心を手放したことのないお方―――とお会いして、その方と文学について語り合いたいものでちゅなあ。

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明・李贄「焚書」巻三「童心説」。明末、陽明学左派からさらに突き抜けて、ついに儒学とそれに基づく社会秩序を否定する言説を弄し、獄中に自裁した李卓吾の有名な論文でっちゅ。

うっしっし、もう隠す必要もありまちゅまい。そう、おいらたちは童子なの。コドモ心の持ち主なんでちゅ! この肝冷斎は、おいらたちが乗っ取ったぜい! 明日からは発展的解消され、「うっしっしコドモ広場(旧肝冷斎雑志)」になりまちゅ!でちゅ!

 

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