どこに行くのでモンキ?
肝冷斎が真実の世界を探し求めて行方知れずとなってからもう何日になるのか。
以前なら数日いなくなると別の肝冷一族の者が現れて更新していたものですが、肝冷一族もかなり数が減ってきているし、より弱い者しか残っていないのでしょうか、今回は代わりの者も出てこない始末。こんなことではそこいらのコドモたちに乗っ取られてしまわないかと心配なの・・・であるのう。
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肝冷斎の書斎をチェックしてみますと、やつは出発直前に民国六十三年(1974)銭穆選輯(台湾中華書局発行)の「理学六家詩鈔」を開いて、真理を求めて旅する友人を送別する詩を読んでいたみたいで、赤鉛筆で線を引いていまちた・・・であるのう。
その一。
君行往返一千里、 君が行、往返一千里、
過我屏山山下村。 我を過(よ)ぎる屏山の山下村。
おまえさんの旅は、行きも帰りも一千里の距離を行く長旅だ(真理を求める旅のように)。
その途中にわしところ、福建の屏山のふもとの村を通り過ぎた。
濁酒寒燈静相対、 濁酒と寒燈に、静かに相対し、
論心直欲到無言。 心を論じてただちに無言に到らんと欲す。
にごり酒をさむざむとしたともしびのもとで杯に酌み、静かに語り合おうとする。
人間の心の問題について議論したかったのだが、ただちに言語にできぬ深いところに至りついてしまい、無言で酌み交わすしかないようだ。
おかしな人たちでちゅ・・・であるのう、この人たちは。
その二
仁体難明君所疑、 仁の体は明らかにしがたく、君の疑うところ、
欲求直截転支離。 直截に求めんと欲すればうたた支離なり。
おまえさんは「人を人たらしむる本質の概念の如何なるかを明確にしがたい」と苦しんでいるようだが、
そんなにまっすぐにそれを求めても、どんどん袋小路に入り込んでいくばかりだぞ。
聖言妙縕無窮意、 聖言は妙縕すれども意を窮むる無く、
涵泳従容只自知。 涵泳し従容としてただおのずから知られん。
聖人・孔子さまの言葉から「仁」に関するものをうまく集めてはみても、聖人の真意は汲み尽せない。
その言葉の中にひたりきって、あとはそのままにしていれば、おのずとわかってくるものではないだろうか。
まじめに直球だけ投げていてはダメなんだ、というんです。「涵泳」(液体に浸って泳ぐ)という状態で、要するスーパー銭湯か温泉にでもつかって、ぼけーとしてろ、ということでいいのかちら・・・かのう?
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宋・朱晦庵「送林熙之詩」(林熙之くんを送別するのうた)より。
もしかしたら、肝冷斎、スーパー銭湯か温泉にでも泊まり込んで真理を探しているのでは? ・・・という疑いも沸いてまいりますが、この「送林熙之詩」絶句はシリーズ全部で五首ありますので、あと三首もあるのですがめんどくさくなってきまちたち、もうコドモは寝る時間なのでもうおちまい。―――あ、いけね、おいらコドモだとバレてちまう。おしまい、なのじゃぞ。