さらば現世。
週末。明日からしばらく休みます。会社もここの更新も。人間としての活動もほぼ終了していくかも。
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唐末の詩人・司空図(しくう・と)は咸通十年(869)の進士であるが、足疾(通風)を理由に辞職して、先祖伝来の河中・王官谷に帰ることになった。
曰く、
某宦情蕭索、百事無能。量才一宜休、揣分二宜休、耄而聵三宜休。
某は宦情蕭索として、百事に無能なり。才を量(はか)れば一の「休むべき」なり、分を揣(はか)れば二の「休むべき」なり、耄にして聵なれば三の「休むべき」なり。
わしは役人を続けていく意思がほとんど無く、また、なにをやってもうまくやれない。
才能を考えてみると、一つ目の「もう辞めた方がいい」に行きついた。人間としての分をわきまえれば、二つ目の「もう辞めた方がいい」に行きついた。おまけに年をとって耳も不自由になってきた。これで三つめの「もう辞めた方がいい」となった。
そこで、隠棲した先のあずまやに「三休亭」と名づけたのである。
このひとは物静かな人柄であったが、
言渉詭激不常、欲免当時之禍。
言は詭激にして常ならざるに渉(わた)り、当時の禍を免れんとす。
びっくりするような激しい言い方や不安定な発言が多かったのは、(奇矯な変人であることを装って)そのころの政官界の危険(まともなひとは次々と宦官や藩鎮ににらまれて殺された)を免れようとしたのであろう。
例えば、
予置冢棺、遇勝日引客坐壙中、賦詩酌酒、霑酔高歌。
あらかじめ冢棺を置き、勝日に遇えば客を引きて壙中に座し、詩を賦し酒を酌み、霑酒して高歌す。
生きているうちに墓の穴に棺を置いて、日柄がよいとその中に客を連れ込んで座らせ、詩を作り酒を飲み、酔っぱらって大声で歌った。
客有難者、曰、君何不廣耶。生死一致、君寧暫遊此中哉。
客に難ずる者有れば、曰く、「君なんぞ廣からざるや。生死一致なり、君むしろしばらくこの中に遊ばん」と。
客の中に「不謹慎ではないか」と批難する者もいたが、司空図は
「おまえさんはどうしてそんなに了見が狭いのじゃ? 生きていても、死んでしまっても、その間にそう大そうな違いはない。おまえさん、どうせならこの棺の中で自由気ままに過ごそうではないか」
と言っていた。
このころ、群盗が多く起こったが、彼らもこの王官谷にだけは、「あそこは賢者の隠れ棲むところだから」として侵入しなかったので、
士民依以避難。
士民よりて以て難を避く。
多くの読書人や人民が、この地に逃げ込んできていた。
そうである。
その最期は、
後聞哀帝遇弑、不食扼捥、嘔血数升而卒。
後に、哀帝の弑さるに遇い、食らわずして扼捥し、嘔血数升にして卒せり。
だいぶんのち、唐朝最後の皇帝・李柷(り・しゅく)(哀帝(在位904〜907))が朱全忠に弑殺されたという話を聞くと、絶食してじっと腕組みを続け、ついに数升の血を吐いて亡くなった。
という。唐王朝に殉じたわけだが、もしかしたらいい機会とぐらいに見て取ったのかも知れない。年七十二であったという。
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「唐書」に伝があるはずであるが、この記述は「唐才子伝」巻八から採った。
おいらも明日から、休む・辞める→変なことを言う→墓穴の中で飲食、のコンボで行きたいと思います。メシを食わずに吐血はちょっとつらいか。さらば。