夏も終わりで涼しくなってきたが・・・
山中には娯楽も無いので読書でもしているしかありません。
お。この文章は熱くなったアタマを冷やす役には立つカモ。
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仏高一尺、魔高一丈。
仏の高さ一尺ならば、魔の高さ一丈なり。
ほとけさまの身の丈が一尺なら、魔物の身の丈は一丈(=十尺)だ。
というのは古人の言ったことばでございます。まことにほとけのあるところには必ず魔がひそむ。よいことがあれば悪いことの影がさしはじめるもの。
ところで、
世但有魔而不仏者、未有仏而不魔者。人患不仏耳、毋患魔也。
世にはただ、魔にして仏ならざる者有るも、いまだ仏にして魔ならざる者有らず。人、仏ならざるを患うるのみ、魔を患うる毋(な)きなり。
この世には、魔であって仏でないものはいるが、仏であって魔でないものはいたことがない。(仏は必ず魔でもある)だから、出会ったものが仏でないならガッカリであるが、魔に出会ってもガッカリしてはならないのでございます。
だって、その魔は仏である可能性があるのだから。
よって、
不仏而魔、宜仏以消之、仏而魔、愈見其仏也。
仏ならずして魔ならば、よろしく仏以てこれを消すべく、仏にして魔ならば、いよよその仏たるを見るなり。
仏でない魔が相手なら、仏の力で魔を打ち消せばよいのですし、一方、仏である魔が相手なら、いよいよ力のある仏だと仰ぎ見るべきなのであります。
考えてもみてください。
仏の左右には
有四天王八金剛、各執刀剣宝杵擁護。無非為魔。終不若山鬼技両有限、老僧不答無窮也。
四天王・八金剛有りて、おのおの刀剣・宝杵を執りて擁護す。魔たるにあらざる無し。ついに山鬼の技量の有限にして、老僧の答えざること窮まり無きにしかざるなり。
四天王や八金剛がいらして、みな刀や剣や希少金属で作られた杵などの武具を持って仏をお守りしているではありませんか。この方々は、みな魔の力を持っておられるのでございます。
まことに山の精霊ごときの力は大したことがないから仏に刃向ってはならないし、老僧の知識なんて大したことないから口を閉ざして永遠に何も語らないのがよろしいのです。
さてさて、
自古英雄豪傑欲建一功立一節、尚且屈恥忍辱以就其事、況欲成此一段大事耶。
いにしえより英雄豪傑の一功を建て一節を立てんとするに、なおすら恥に屈し辱を忍びて以てその事に就く、いわんやこの一段大事を成さんとするにおいてをや。
むかしから、あまたの英雄豪傑が、何かでかいことをし遂げ、なにか立派なことをしとおすために、屈辱に耐え忍んでそのことに従事してきたものでございます。
あなたは今、これほど大切なことをしようとするのだから、あなたも耐え忍ばないといけません。
以上。
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明・梅衡湘「答李卓吾書」(李卓吾先生に答える手紙)(李卓吾「焚書」巻二所収)。
具体的に何を言っているのかわかりませんが、とりあえず悪いこと(=魔)は良いこと(=仏)に転化する可能性があるので、悪いことにも耐えろ、と言っている?のだろうと推測されます。
明日は月曜日。平地の人間のみなさんはまた平日で出勤ですね。しごと(=魔)も何かいいことに転化する可能性もわずかにあるかも。かわいそうだけど耐え忍んでくださいね。