適量を食べればいのちながからむ。
今日は昔の教え子から連絡あり。近日中に何か食わせろという。もう社会人となって自分で稼いでいるのに食わせろというのは理不尽であるが、若い人が大人になったのを見るとやはりある種の感慨を持たざるを得ない。
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今年、鄒彦吉先生が七十になったので、そのお祝いをすることになった。
思えばおいらが先生にはじめてお会いしたのは、おいらがまだ童試(コドモ公務員試験)を受けていたころですから、おいらが十八、先生は四十三で外見は玉のごとく温かく、骨が鉄でできているかのごとく背筋がぴんと通り、淵や鏡のように静かで奥深い雰囲気を漂わせておられた。
そして今、おいらは四十五になりまして、先生は七十歳になられたのである。
黙観此二十八年中、世変人情動定倚伏、先生所以処之之道、非古人所謂静者、真不能与于此也。
黙してこの二十八年中を観るに、世変じ、人情動き定まり倚伏して、先生の以てこれに処するところの道、古人のいわゆる静なるものにあらざれば、真にこれに与るあたわず。
黙ってこの二十八年間を振り返ってみますと、世の中は変化し人の心も動揺したり安定したりゆったりしたり落ち込んだりで、先生がこのような変化に対処する方法――すなわちそれは宋の大儒・周濂溪が言った「安静にしていること」なのだが、この方法だけが本当にその変化を乗り切ることに役立ってきたのである。
(中略)
さて、安静にして動かぬものといえば山でございます。あの山をご覧ください。
山、至寿也。
山は至りて寿なり。
山というのはきわめていのちの長いものです。
于人事則有館宇之成毀、于物態則有草樹之栄落、于天時則有風日之陰霽、而卒無改于山。
人事においてはすなわち館宇の成毀、物態においてはすなわち草樹の栄落、天時においてはすなわち風日の陰霽、而してついに山において改むる無し。
人間のやることなら、館や家を建てたり壊したり――、物体の対応なら、草や木が生えたり枯れたり――、気候のことなら、風が吹いて曇ったり日が照って晴れたり――、これらはしかし、究極のところ山の姿を変えることはできない。
すなわち、
山者、閲人事、物態、天時者也、不為人事、物態、天時閲者也。
山なるものは、人事、物態、天時を閲し、人事、物態、天時の閲するものとはならず。
山というものは、人間のやること、物体の対応、気候のことなどを観察する者であり。人間のやること、物体の対応、気候のことなどに観察されるものではないのだ。
先生はこの数十年、
其為成毀、栄落、陰霽也多矣。
その成毀、栄落、陰霽や多いかな。
建てたり壊したり、生えたり枯れたり、曇ったり晴れたりが無数に繰り返されてきた。
その中で、
閲世而不為世所閲、是謂至静、静則寿、山之象也。
世を閲して世に閲せられず、これ「至静」という。静はすなわち寿にして山の象なり。
世間のことを観察するだけで世間から観察されるのではない。このような状態を「とても安静」というのであり、「安静」であればいのち長く、山のシンボルを得るのである。
先生はあの山のような方である。
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明・退谷先生・鍾伯敬「鍾伯敬小品集」(1996劉良明撰注)より「鄒彦吉先生七十序」。
智者は水を好み、人生楽しいんです。仁者は山を好み、いのち長いんです。と「論語」に書いてある。おいらも七十まであと十×年、そろそろ山を好まないとたどり着けないカモ。