平成22年6月16日(水) 目次へ 前回に戻る
南京の友人あて
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去年、短い手紙と一篇の詩を茂之兄に託してあなたにお届けしようとしたが、茂之はいつの間にか行き先を変えて今は北京にいるという。
はたしてわたしの手紙は、
想竟浮沈也。
想う、ついに浮くや沈むや、と。
最終的に浮いたのでしょうか、沈んだのでしょうか。 → (注1)を参照のこと
それはそれとしまして、譚友夏という男がいます。我が楚地方(長江中流域)を代表する才子というべき逸材です。
比于不佞十倍、而風流又倍之、老朽不足道也。
不佞に比して十倍、而して風流またこれに倍し、老朽道うに足らず。
不佞(わたくし。注2参照)に比べれば(その才能)は十倍もあります。而して、風流、すなわち実生活の利害を気にしないことはさらに二倍(わたしに比べて二十倍)という男で、老いぼれ枯れ果てていること、ほんとうにお話もなりません。
(↑これは誉めコトバです。ちなみにこの手紙は譚友夏の紹介状にも思えます)
相見自能領其妙。不佞不必言、言者不佞意也。
相見て自らよくその妙を領せよ。不佞必ずしも言わず、言は不佞の意なり。
どうぞ一度お会いになって、ご自分でその男の不思議な魅力をご理解してみてください。わたくしはこれ以上は申し上げますまい、申し上げたところでそのコトバはわたしの気持ちにしか過ぎ(ず、彼の魅力の全体を現すコトバでは)ないからです。
近く、取りまとめた新著をあなたにもお送りできると思います。ただ、わたしは現在、どんどん粗野なニンゲンになってしまっておりまして、この先が心配でなりません。
欲不村時、亦已老醜矣。
不村ならんとする時はまたすでに老醜なるかな。
洗練されたお上品なニンゲンになろう、と心に決めるころには、もうすでに老いて人目を憚るほどになっていることでございましょう。
可嘆、可笑。
嘆くべく、笑うべし。
ほんとうに困ったことですなあ、ほんとうにお笑いなことですなあ。
(↑これは複雑な反語になっていて、おそらく粗野なニンゲンになっていくことに満足しているのです。)
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こういうのも悦んでもらえるひともいるのかなあと思いまして訳してみました。
五年ぶりぐらいの登場になると思いますが、明・鍾惺(字・伯敬、自ら退谷あるいは退庵と号す。1574〜1625)の「与金陵友人」(金陵の友人に与う)という手紙文です。鍾伯敬は晩明の文人、湖北・竟陵のひとで、年下の同郷の友人で上文にも出てくる譚友夏とともに「竟陵派」といわれる幽遠・孤独の中に自由を謳う文学グループを構築した。「列朝詩集小伝」にも出てくるのですが、詳しい紹介はまたそのうち。
(注1) 浮沈
晋の殷羨(字・洪喬)の故事(「世説新語」任誕第二十三・31)による。
殷洪喬が予章(江西)の太守となったとき、出発に当たって都・建康のひとびと、予章の知り合いのもとに届けてほしいと彼に手紙をことづけ、その量が百箱余にもなった。ところが殷洪喬は、
既至石頭、悉擲水中。
既に石頭に至り、ことごとく水中に擲(なげう)つ。
建康を出発して長江を遡り、郊外に当たる石頭城のあたりまで来ると、預かってきた手紙をことごとく江の水に投じてしまったのであった。
そして、まるで祝詞をとなえるように曰く、
沈者自沈、浮者自浮、殷洪喬不能作致書郵。
沈者は自ずから沈め、浮者は自ずから浮け、殷洪喬は致書郵を作(な)すあたわず。
沈むものは勝手に沈め、浮くものは勝手に浮け。この殷洪喬さまが飛脚しごとなどできようか。
と。
「浮きましたか沈みましたか」と言うのは、ひとに預けた手紙が届いたか届いてないかわからないことをいうているのである。ちなみに殷洪喬の行為、近代人としては許しがたく思えるのですが、中世のしかも「貴族」ですからわれわれとは違う世界の方々なので何をしてもしかたありません。とやかく言わないでください。
(注2) 不佞
「佞」(ねい)は「佞言」「佞巧」のように熟して「へつらう、心ねじける」という意味に使い、「佞仏」(=冥福を得ようとしてホトケさまにこびへつらい、君臣としての義務を忘れて信仰すること)という熟語まで生み出しております。これは「信」の字を略して「仁」にして、下に「女」を着けた字で「女性の信は「へつらい」であるからである」そうですが、実は「佞」はもともと「才能がある」という意味の文字で、ゆえに「不佞」というのは「才能がない」の意。謙遜の意味をこめて自称に使うのが普通です。
・・・・晋の国で、献侯の死後、誰を侯に立てるか争いがあったとき、秦の穆公が介入して、秦に亡命していた晋の公子・夷吾を立てた。これが恵侯(在位前650〜636)であるが、穆公が夷吾を後押ししようと決める際、穆公は夷吾の側近の大夫・冀芮(きぜい)に
「夷吾どのは晋の国内にどなたか支持者がおられるか(。おられぬはず。それではなかなか推しにくいのう)」
と問うた。冀芮、答えて曰く、
―――臣はこのように聞いております。
亡人無党、有党必有讐。
亡人に党無し、党あれば必ず讐あり、と。
「亡命者には支持者はいないもの。もし支持者がいたら敵対者もいるのだから。」
だから、夷吾さまには国内には目立った支持者はおられませぬ。(敵対者もおりませぬ。)
そもそも夷吾さまは幼いころからひとと勝ち負けのつく遊びごとを好みませんでした。ひとから頂き物をすれば必ずお返しし、不快な仕打ちを受けても顔色には現わさなかった。成人されてからもそのままであられます。だから、亡命しても国内で公子を憎んでいるひとはおりませぬ。
そうでなければ、
夷吾不佞、其誰能恃乎。
夷吾は不佞なり、それ、誰かよく恃まんや。
夷吾さまはあのとおり才能の無いおひとでござる。どうして(応援してくださるよう、秦の穆公さまのような)立派な方に依頼しようとするほどのレベルの国君の候補者になれましょうか。
「なるほどのう」
穆公は納得し、夷吾を支援して侯に立てることとしたのである。
識者(君子)曰く、「うまく言ってその気にさせたものじゃなあ」と。
・・・・・・・・と、「国語」の晋語一に書いてあります。ここでは自称でないので本人が聞いたら怒るかも知れませんが、聞こえなければいいのでしょう。