どのヒツジがおまえの探しているヒツジか?
また明日は平日・・・。心は沈む。
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ああ。
金樽清酒斗十千、 金樽の清酒は斗十千、
玉盤珍羞直万銭。 玉盤の珍羞な直(あたい)万銭。
黄金の杯に汲んだ透き通った酒は一斗一万銭、玉作りのお皿に美味そうなおかず、これも値段は一万銭だという。
すばらしいです。
しかし、
停杯投筯不能食、 杯を停どめて筯(はし)を投げ食らうあたわず。
さかずきを止どめ、はしを投げ出して、食べることができない。
腹がいっぱいなのではなくて、思うところあって飲食さえ楽しくないのである。
さらに、なんと、
抜剣四顧心茫然。 剣を抜きて四顧し、心茫然たり。
鞘を払って剣を抜きはなち、まわりを見回す。心の中はどうしたらいいのかわからないのだ。
このひとは危険です。
なぜこんなことをしてしまうのか。
欲渡黄河氷塞川、 黄河を渡らんとすれば、氷、川を塞ぎ、
将登太行雪満山。 まさに太行に登らんとして雪山に満つ。
黄河を渡ろうとしたら、川は氷に閉ざされてしまっていたのだ。
太行山脈に登ろうとしたら、山は雪に覆われてしまっていたのだ。
行こうとして行く手は妨げられた。(これは自らの立身栄達の道が塞がれたことを言うらしい。)
思ったとおりに行かないので、あたま来て刀を振り回したのである。
気を落ち着かせて、
閑来垂釣碧溪上、 閑来、釣を垂る、碧溪の上、
忽復乗舟夢日辺。 たちまちまた舟に乗りて日辺(じっぺん)を夢む。
やることが無いので青みどりの溪谷のほとりで釣り糸を垂れてみたのだが、
ふと、また舟に乗って太陽が昇ってくるあたりまで行く冒険の夢を見てしまう。
けれど、
行路難、行路難。 行路難なり、行路難なり。
行くべき道は険しいのだ、行くべき道は険しいのだ。
多岐路、今安在。 岐路多く、いまいずくにか在る。
別れ道が多すぎて、いまどこまで来ているのやらわからない。
「岐路多し」について・・・・・・・
むかし、楊朱の隣人の飼う羊がいなくなってしまったので、村中の人総出で探してみた。
楊朱は問うた。
亡一羊何追者之衆。
亡(うしな)うは一羊にして何ぞ追う者の衆(おお)き。
「いなくなったのは一匹の羊だというのに、どうしてそんな多人数で追っかけるんじゃ?」
その人答えて曰く、
多岐路。
岐路多し。
「別れ道が多いからですよ」
やがてひとびとが引き返してきた。
問う、
獲羊乎。
羊を獲しや。
「ヒツジはつかまったかな?」
答えて曰く、
亡之矣。
これを亡えり。
「つかまりませんでした」
奚亡之。
なんぞこれを亡える。
「どうして捕まえられなかったんじゃ?」
岐路之中又有岐焉。吾不知所之、所以反也。
岐路の中にまた岐有り。吾ゆくところを知らず、反するゆえんなり。
「別れ道の中にまた別れ道があったのです。わたしはその中のどれを行けばいいのかわからなくなってしまいました。そこで手ぶらで帰ってきたのです」
―――ああ!
楊子は押し黙り、それから何日も口を利かなかった。
と「列子」説符篇にあり。
けだし人生の岐路もまた多数にわたり、誰もその真の目的を遂げずに終わっていくことを思ったのである。いわゆる「亡羊多岐」の故事でございます。
・・・・・・・・・・・さて。
行く道の険しい今は、まだその時ではないようだが、
長風破浪会有時、 長風波を破りてすなわち時有れば、
直掛雲帆済滄海。 ただちに雲帆を掛けて滄海を済(わた)らん。
強い風が波を破って行く時が来たら、
わたしもまたただちに雲のような帆を上げて、滄海を渡って旅立つこととしよう。
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唐・李太白「行路難」一。
「行路難」(行く道は険しい)というのは、歌謡(「楽府」)の題の一つです。呉の名将・陳武が若いころヒツジ飼いをしていたが、そのころに
諸家牧豎有知歌謡者、武遂学行路難。
諸家の牧豎の歌謡を知る者有り、武、ついに「行路難」を学ぶ。
ほかのヒツジ飼いの中に歌が得意なやつがいて、陳武はそいつから「行路難」の歌を習った。
というので、後漢の終わりころ(2世紀)の牧羊者たちの労働歌であったのであろう、という。(宋・郭茂倩「楽府詩集」→こちらも参照してください。「行路難」)
なお、この李白の詩については、清・乾隆帝の御撰になる「唐宋詩醇」の「御批」(編集責任者(乾隆帝)のご批評)にいうに、
此蓋被放之初。
これけだし、放たるの初めならん。
この詩はおそらく、李白が玄宗皇帝の宮廷を追放された、そのすぐあとのころの作品なのであろう。
だから滄海を渡ることを決意していながら、まだ帆を上げていないのである、と。
されば読むひと、この詩を引用した肝冷斎の寓意も、見なければなるまい。