平日二日終わった。あと三日・・・も生き延びられるか・・・。行く路は困難。
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今日はうたを歌いまっちゅ。
えー、楽府題に「行路難」というのがございまっちゅ。行く路は困難、という読んで字のごとき思いをうたった歌でして、
備言世路艱難及離別悲傷之意。
備(つぶ)さに世路の艱難及び離別悲傷の意を言う。
世間を歩んでいく道の苦しく困難であること、または別れの悲しみの気持ちをくどくどと述べるうたである。
もと三国・呉の名将・陳武が若いころのこと、
武常牧羊、諸家牧豎有知歌謡者、武遂学行路難。
武、常に牧羊するに、諸家の牧豎(ぼくじゅ)、歌謡を知る者有り、武ついに「行路難」を学ぶ。
陳武は羊飼いのしごとをしていた。同じ羊飼いの中には歌謡のことに詳しい者がおり、陳武は彼らから「行路難」のうたを教わった。
というので、
所起亦遠矣。
起こるところまた遠きかな。
起原はたいへん古い時代なのである。
この「行路難」の元歌の音楽に合わせて、古来多くの詩人により多くの作品がつくられてきておりますが、
多以君不見為首。
多く「君見ずや」を以て首と為す。
歌いだしが「あなたはご覧になったかな?」となっているものが多い。
のでございます。
解説は以上でございます。
今日はこの題名で遺るうたの中でも最も古いものに属する南朝の宋のひと鮑照(「法テラス」ではなく「ほう・しょう」)の「行路難」十八首のうち第四首をご紹介いたしましょう。(残念ながらこのうたは歌い出しが「君見ずや」になっておりませんが、「君見ずや」を歌い出しに置いて読んでいただくとわかりやすいと思います。拙訳はそうさせていただきまちた)
瀉水置平地、各自東西南北流。 水を瀉(そそ)ぎて平地に置かば、各自に東西南北に流る。
人生亦有命、安能行歎復坐愁。 人生また命有り、いずくんぞよく行きては歎きまた坐して愁えん。
酌酒以自寛、挙杯断絶歌路難。 酒を酌みて以て自ら寛うし、杯を挙げて「路難」を歌うを断絶せん。
あなたはご覧になったことはないか、水を平地に注ぎ落とすと、勝手に東西南北に流れて行ってしまうではないか。
人生にもそれぞれに運命というものがあるのだ、どうして歩いては歎き、座っては愁いに沈むようにいつまでも落ち込んでいられようか。
そこでお酒の力を借りまして、自分を寛がせる。さかずきを挙げて、気持ちよくなって「行路難」の歌をうたうのは止めてしまおう。
―――と思ったのだが・・・
心非木石豈無感、 心は木石に非ず、あに感ずること無からんや、
呑声躑躅不敢言。 声を呑みて躑躅(てきちょく)としてあえて言わざるなり。
しかし、心は樹木や岩石ではないので、どうしても感情というものがあるのだ。
言いたくなるのをぐっと飲み込み、ふらふらとしながら言わないようにしているのである。
以上。もちろん言いたいことは「行路難」、世路を行くはなんと困難なるかな、という言葉であります。おとこというものツラいもの、顏で笑ってハラで泣く。
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宋・郭茂倩編「楽府詩集」巻七十より。
鮑照、字は明遠、江蘇・東海のひと、東晋の義熙年間(405〜418)の初めごろの生まれ、下級官人として王侯貴族に阿諛追従の詩文を多く作って取り入りながら彼らの属官や地方官吏を転々として生きたという。宋の臨海王の属官である前軍参軍という職に就いていたことがあるので、後世からは「鮑参軍」と称されることが多い。(例えば、杜甫が李白を称賛して「俊逸鮑参軍」(俊逸なること鮑参軍のごとし)と謳っている(「春日、李白を憶う」)ように。
宋の末期、泰始二年(466)に皇統の争いをめぐる貴族たちの政争に巻き込まれ、とかげの尻尾を切るように、殺されたのであった。