ぶた航空で雲の上まで一っ飛び。
今日もいい天気でしたなあ。「昭和の日」なので、昭和の詩でも読んでみましょう。
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頃日、売旧蔵国富論、換漢籍。楽不少。
頃日、旧蔵の「国富論」を売りて漢籍に換う。楽しむこと少なからず。
ちかごろ、以前から所有していた「国富論」を売って漢文の本を買った。これはなかなか楽しい。
という題の詩です。
蠹書聊得買、 蠹書(としょ)いささか買うことを得、
青帙散空牀。 青佚(せいちつ)、空牀に散ず。
むしくった本を少々買うことができた。
(ごろごろしながら読み散らかしていたので)青い背表紙の本が寝床に散らばっている。
誰知貧巷裡、 誰か知る、貧巷の裡(うち)、
亦有白雲郷。 また白雲の郷有らん、と。
いったいどなたが御存知だろうか。貧しい路地の奥(にあるわしの家の中)に、
一つの白雲の国がある、ということを。
「貧巷」は「論語」雍也篇の有名なコトバ、
―――先生がおっしゃった、
賢哉回也。一箪食、一瓢飲、在陋巷。人不堪其憂、回也不改其楽。
賢なるかな、回や。一箪の食(し)、一瓢の飲、陋巷に在り。人、その憂いに堪えざるに、回やその楽しみを改めず。
「かしこいのう、顔回くんは。容器に一盛りの食べ物と、瓢に一杯の飲み物しかなく、路地の奥に暮らしている。みなさん、そんな生活はイヤだ、と思うものなのだが、顔回くんは@その生活を楽しんでいるのだ。Aその生活の中でも(道を求めるという学問を)楽しんでいるのだ。
を踏まえているものと思われます。「巷」という文字があれば、まずとにかくこれを踏まえている、と見てよいと思います。(なお、@とAは、どちらでも好きな方を選んでください。)
「白雲郷」は蘇東坡に
公昔騎龍白雲郷、 公、むかし龍に騎りて、白雲郷へ
手抉雲漢分天章。 手は雲漢を抉りて天章を分かつ。
唐の韓愈さまは、むかし龍に乗って白雲の国に行き、
その手で天の川をひっつかんで、空の模様を二つに分けた。(ぐらい想像力豊かであったのだ)
の語があり(「潮州の韓文公廟の碑」)、天帝のおわす「天界」あるいは「仙界」をいう。もとは、「荘子」天地篇の
乗彼白雲、至於帝郷。
かの白雲に乗じ、帝郷に至らん。
あの白い雲に乗って、ふうわりふわりと、天帝の国に行こうではないか。
に基づくという。
―――ということで、作者は「わしのうちには漢文のオモシロい本がある=「白雲郷」である=仙人の世界なんじゃ」と言っているのである。
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この詩は、昭和十七年四月二十八日の日付があります。73年前の昨日の作品だということです。作者は河上肇先生。詩題中の「国富論」はアダム・スミス先生の「諸国民の富」の、原書(本人の日記によれば初版本)だそうです。これを奉職していた関西学院大学に寄附し、謝礼として七百円を受領したのだそうで、そのおカネで漢詩の本を買ってニヤニヤしていたらしい。前年夏に東京保護観察所に「左翼文献」を没収されてしまって、「身辺ことに寂寞」だったそうなので、新しい本はうれしかったのでしょう。なお先生は、エドガー=スノウの「中国の赤い星」の原書を読んでニヤニヤしていたこともあるそうですが、それは「漢籍」ではないのでこの時のことではないようです。
一海知義「河上肇詩注」(1977岩波新書)より。