←「長人」ならこんなのにも勝てるカモ
三日もシゴトしてもう個人的には限界まで来たが、この寒いのに明日はまだ木曜日で、しかも雪まで降るという。けしからん。
・・・・・・・・・・・・・・・
一昨日の続き。「楚辞」に登場する「長人」(でかいひと)について。
仲尼(孔子の字)がおっしゃった。
昔禹致群神於会稽之山、防風氏後至。禹殺而戮之、其骨節専車。
昔、禹の群神を会稽の山に致すに、防風氏後に至る。禹これを殺して戮すに、その骨節、車に専なり。
むかし、夏の禹王が多くの神々を浙江の会稽山に集合させたことがあったが、「防風さま」という神が一番おくれてやってきた。禹は自分の命令をないがしろにしたと怒りまして、この「防風さま」を殺してしまった。その骨を運ぼうとしたところ、骨の一節が車いっぱいになった。
これはでかい。
また、おっしゃった。
山川之守、足以綱紀天下者、其守為神。
山川の守、以て天下を綱紀するに足りる者は、その守、神たり。
山や川の守護者であって、天下に秩序を保つことができるならば、その守護者は「神」といわれる。
質問する者があった。
防風氏何守也。
防風氏は何の守ぞや。
防風さま(も「神」であったはずだが、山や川の守護者であることが「神」の必要条件であるとすると、防風さま)はなんの守護者であったのか。
仲尼お答えになって曰く、
汪芒氏之君、守封嵎之山者也。為漆姓、在虞、夏、商為王芒氏、於周為長狄、今為大人。
汪芒氏の君にして、封嵎(ほうぐう)の山を守る者なり。漆姓たりて、虞、夏、商にありては王芒氏たり、周においては「長狄」たり、今大人たり。
汪芒氏(おうぼう族)の主君で、封嵎の山の守護者であったのが防風さまである。姓は「漆」。古代の舜帝の時代、夏の時代、殷の時代には汪芒氏といわれていたが、(孔子の生きるゲンダイである)周の時代には「長狄」と呼ばれた。今の時代の「おおきなひと」である。
「さすがは孔子さま。なんでも知っておられますなあ。では、
人長之極幾何。
人の長きの極はいくばくぞや。
ニンゲンの背丈の極限はどれぐらいなのでしょうか」
孔子曰く、
長者不過十之、数之極也。
長者も十之に過ぎず、数の極なり。
でかいひとでも十之の長さを過ぎることはない。それが数値的には極限である。
十之というのは三丈のことである。古代の一丈は2メートルですから身長6メートル、これが極限だそうです。
なお湖南・武康の東に防風山がある、ということである。(なお「防風国」について興味のある方はこちらの異伝も参照ください→「博物志」より)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、「国語」に書いてあるそうです。6メートルといえば故ジャイアント馬場氏の3倍、人間山脈アンドレ・ザ・ジャイアントの2.5倍ぐらい。確かにかなり限界を越えているカモ知れません。しかし、チャイナには古い歴史があります。「周の時代には「長狄」と呼ばれた」とありますが、この「長狄」は確かに歴史的に実在したのです(かも知れないという記録があります)。
「春秋」魯・文公十一年(紀元前616)には、冬十月甲午の日、
叔孫得臣敗狄于鹹。
叔孫得臣、狄(てき)を鹹(かん)に敗る。
魯の叔孫得臣が、「狄」族を魯の鹹の地で破った。
という記述がありますが、これに附された「穀梁伝」の解説によれば、
伝曰長狄也。弟兄三人、佚宕中国、瓦石不能害。
伝えて曰く、長狄なり。弟兄三人、中国を佚宕(いつとう)し、瓦石も害するあたわず。
言い伝えによれば、この「狄」族は「長狄」であった。すなわち「狄」というのは三人兄弟で、その一番上である。彼らは中原の地で好き放題に活動したが、瓦や石が当たっても傷つかない身体を持っており、その長男の「長狄」が魯の地で暴れていたのである。
ところで、
叔孫得臣、最善射者也。
叔孫得臣は最も射を善くする者なり。
叔孫得臣は、弓矢の術にたいへん長じたひとであった。
彼は、長狄を征伐しようとして、体のどこを射ても傷つけられないことを覚ると、狙い澄まして、
射其目。
その目を射る。
その目に矢を射こんだ。
うおおーーーーー!
長狄は目をおさえながら倒れた。
身横九畝、断其首而載之、眉見於軾。
身は九畝に横たわり、その首を断ちてこれを載するに、眉、軾にあらわれたり。
「畝」は広さの単位でもありますが、ここでは長さの単位である「歩」のことではないかと思います。「一歩」は古代では1.2メートルですので、「九畝」は約10メートル超ぐらい。
斃れた長狄の体は10メートルちょっと、その首を斬って車に乗せたが、車の横棒のところより上に眉が出ていた(車の荷台からはみ出すぐらい首がでかい、ということである)。
こういうひとたちが「長人」というひとたちであったのである。