平成26年10月18日(土)  目次へ  前回に戻る

 

今日は頭痛がひどかった。が、しごとないので楽しかった。

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昨日、13日の月曜日に報告した「外朝」の実例をご紹介した―――ご紹介されたみなさんの方はだらだらと読まされてめんどくさかったことでございましょう(「いや、読んでないから大丈夫」というお答えが一番多いのでしょうからいいか・・・)。しかし、です。「外朝」の実例をまた発見してしまったので、(忘れる前に)今日もご紹介しますので、めんどくさいでしょうけどおゆるしください。(まあ「読まないからいいや」というにこやかなご返事が一番多いのでしょうからいいんでしょうけど)

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紀元前506年のことでございます。

呉王闔閭が楚に攻め込んだ。(参考→「封豕長蛇」このときのことでしたね)

このとき、呉の國から、楚の服属國である陳の君主・懐公にお召しの使者が来た。要するに「今後は楚ではなく呉に服属するように。とりあえずまず挨拶に来い」という命令である。

「エラいこっちゃ」

重大な外交上の問題であり、国の存亡に直接関係することになりそうです。

これはどエラいことなので、

懐公朝國人。

懐公、国人を朝す。

懐公は国人(市民)を集めて会議を開いた。

会議は「小司寇」が主宰するのではなく、懐公自身が直接國人たちに問いかける方式であったようです。

公曰く、

欲与楚者右、欲与呉者左。

楚に与(くみ)せんとする者は右し、呉に与せんとする者は左せよ。

「楚との同盟を継続しようという者は向かって右に、呉と新たに同盟すべきだという者は向かって左に、それぞれ集まってくれ」

多数決をとろうとしたのか、国の分裂を容認しようとしたのか、意図はわかりませんが、とにかく個々の意見を確認しようとした。

陳人従田、無田従党。

陳ひとは田に従い、田無きは党に従う。

陳のひとたちは、保有する田の位置が楚に近いひとは楚の側に、そうでないひとは呉の側に従おうとした。また、田を所有していない者たちはそれぞれの人間関係によって判断した。

「無田」すなわち土地を保有していないクラスの人でも「國人」となれたということがわかりますね。

という、これが「外朝」の二つ目の実例です(時期的には昨日の前506年の例より以前なのですが、「左氏伝」の記述ではこちらの方が後で出てくるので二例目とさせていただきます)。

以上。

あとは付け足し。

このとき、逢滑(ほうかつ)という国人があって、右にも左にも行かず、

当公而進。

公に当たりて進めり。

公の方にまっすぐ歩いてきたのだった。

そして、公に対して言うに、

臣聞、国之興也以福、其亡也以禍。今呉未有福、楚未有禍、楚未可棄、呉未可従。

臣聞く、国の興こるや福を以てし、その亡ぶや禍を以てす、と。今、呉はいまだ福あらず、楚いまだ禍有らず、楚いまだ棄つべからずして、呉はいまだ従うべからざるなり。

「わたしはこう聞いたことがあります。

國が勃興するときは幸運なことが起こるものだし、国が衰亡するときには災禍が降るものだ、と。現在の状況を見ますに、呉にはまだ幸運なことは起こっておりませんし、楚にはまだ災禍が降っていないと思われます。よって、楚はまだ関係を切るべきではなく、呉はまだこれに従うには至っていないといえましょう。

ところで、中原には晋という盟主がおります。この際、「我が国は晋の同盟に入った」と宣言してしまっては如何でしょうか」

公はお訊ねになった。

國勝君亡、非禍而何。

國は勝たれ君は亡す、禍にあらずして何ぞや。

「國は相手に勝たれてしまい君主は国都を棄てて亡命なさったと聞く。災禍が降ったと言わずして何といえばいいのか」

「いやいや」

逢滑答えて曰く、

國之有是多矣。何必不復。小國猶復、況大国乎。

國の是有るや多きかな。何ぞ必ずしも復せざる。小國なお復す、いわんや大国をや。

「國にそんなことが起こるのは決して例が少ないわけではございません。よくあることでございます。それらの國は、たいてい復興しております。小さな國でも復興しますからね、いわんや楚のような大国が復興しないはずがないではありませんか。

それに、わたくしはこのようなことも聞いたことがございます。

國之興也、視民如傷、是其福也。其亡也、以民為土芥、是其禍也。

國の興るや、民を視ること傷めるが如し、これそれ福なり。その亡ずるや、民を以て土芥と為す、これそれ禍なり。

國が勃興するときには、その国民に対して、まるでケガしている者を介抱するように大切にする。これこそ、幸運というものです。一方、国が衰亡するときには、その民をまるで土くれかゴミクズのように扱うもの。これこそ、災禍というものです。

楚はたしかに正義の國ではありませんが、その民を草でも切るように殺しているわけではありません。一方の呉の方はつねに軍事力を利用していますので、戦死した兵士らの骨はまだ野原にさらされたままになっており、決して道徳面で立派なものではございません。

天其或者正訓楚也。禍之適呉、其何日之有。

天は、それ或いは楚を正訓せんとするならん。禍の呉に適(ゆ)く、それ何ほどの日かこれ有らんや。

お天道様は、もしかしたら楚が正しい行動をするように試練を与えているのかも知れません。災禍が呉の方に移行するまでに、どれほどの日数もかかりますまい」

「なるほどなあ」

陳侯は逢滑の言を容れ、呉に同調しなかった。

このあと楚が持ち直しましたので、逢滑の予測は当たった。呉では王弟の叛乱が起こり、さらに呉王闔閭は楚との戦いのさいちゅうに傷を負って、それが原因となって卒したのであった・・・・・・・・

・・・・・・・・のでしたが、さらにその後また運命女神のてのひらが「くるり」とかえり、呉では闔閭の嫡子・夫差が力を貯えて、ついに紀元前494年、陳に攻め込んでまいりましたー! のですが、その顛末はまたいずれにときに。(→例えばこんな影響が・・・器」

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「春秋」左氏伝・哀公元年(前494)条より。

力の弱い者はいろいろ苦労しますね。知恵があってしかもシゴト大好きで努力すれば克服できるのかも知れませんが、ふつうのひとにはムリ。

 

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