ボストン、ミサイル、地震・・・。いろいろたいへんですね。
そんな中で、おいらは昨日に引き続き今日も、東京のエライ人を迎えての飲み会。そして明日も、明後日も・・・。童子なのに「黄色いお湯」を飲むのはやはりムリがありますよ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「黄色いお湯」とは何でしょうか。
今人嗜酒者、称酒為天禄。
今人の酒を嗜む者、酒を称して天禄と為す。
現代の酒好きのひとは、酒のことを「天の下さりモノ」と呼ぶ。
「現代」というのは現在の現代ではなく、清の嘉慶・道光のころ、19世紀の前半のことでございます。
これに対して、
憎飲者、又呼酒為黄湯。
飲を憎む者、また酒を呼びて黄湯と為す。
お酒を飲むのが嫌いなひとは、酒のことを「(ただの)黄色いお湯」と呼ぶ。
というわけで、下戸はお酒を「黄色いお湯」と呼び、「あんな黄色いお湯のどこがいいんだ」と捨て台詞を言うわけです。
しかし、両者とも
不知古人但称杯中物。無咎無誉、最為質実。
知らず、古人はただ「杯中物」と称するのみなるを。咎も無く誉れも無く、最も質実なりと為す。
いにしえの人たちが「さかずきの中のモノ」とだけ呼び、けなすわけでも持ち上げるわけでもなく、事実を押さえてしっかりした呼び方をしていたことを御存知ないのである。
まあ、いいや。
実は、
余生平屢戒飲而屢破戒。
余は生平、しばしば飲むを戒めてしばしば戒めを破れり。
わし(←清の梁章鉅さん)はこれまで、ずいぶん何度も禁酒を誓ってきたものである。そして、同じ回数だけ誓いを破ってきたのである。
晋の貴族・呉衎が禁酒したとき、友人の阮修(参考1、参考2)が
以拳殴其背、曰、看看老逼痴漢、忍断杯中物耶。
拳を以てその背を殴り、曰く、「看す看す老い逼るの痴漢、杯中物を断ずるに忍びんや」と。
げんこつで呉衎の背中を殴りつけて、(呉衎が振り向いたところで)
「みるみるうちに老いが迫ってくるのだ、あほうめが「さかずきの中のモノ」を自ら禁じることができるのか?」
と言っ(て、禁酒を止めさせ)た。
ということであるが、まことにこの阮修のコトバは味わい深いではないか。
わしは退職してからは、
遂止不戒、且無日不与酒為縁。
遂にただに戒めざるのみならず、かつ日として酒と縁を為さざるの日無し。
もう二度と禁酒はしていないし、とにかく一日として酒の世話にならない日は無いという生活をしているのだ。
以下、参考までに―――
○陶淵明
天運苟如此、且進杯中物。 天運もしかくの如くんば、まさに進めん杯中物。
運命がわしらをこのようにしたのだ。(だから気にせずに、)さあ、「さかずきの中のモノ」を呑みたまえ。
○孟浩然
且楽杯中物、誰論世上名。 まさに楽しまん 杯中物。誰か論ぜん 世上の名。
さあ「さかずきの中のモノ」を楽しもうではないか。世間での評判などを気にするやつがどこかにいるのか?
○杜甫
頼有杯中物、還同海上鷗。 杯中物を有するに頼りて、また海上の鷗に同じうせん。
この「さかずきの中のモノ」さえあれば、海辺のカモメ(無心なるモノに喩える→参考○カモメ)と同じキモチに戻れるはずだ。
忍断杯中物、秖見座右銘。 杯中物を断ずるを忍びんや、ただ見る座右の銘。
「さかずきの中のモノ」を自ら禁じることはなかなか・・・。座右に置いた自分への戒めの言葉は何度も見るのだけど・・・。
ちなみに「座右銘」は漢の崔瑗が人への恨みや現世への執心を抑えるためにはじめて作ったものだが、座の側らに置いておく銘という趣意なので「右」にはあまり意味が無く、「座左銘」ともいいますので念のため。滅多にいないと思いますが、「おれの座左銘は・・・・」と言い出す人がいても嘲笑したり誤りであると指摘したりすると大恥をかくので注意してくださいね。
かように、
知自古名流、皆不能忘情此物者、故口吻如一。
いにしえより名流の、みな此の物なる者を忘情するあたわず、故に口吻一なるが如し。
むかしから有名な文化人たちは、みなこの「さかずきの中のモノ」を忘れ、縁を切ることができなかったのだ。だからみんな同じような言葉を吐いているのであろう。
・・・・・・・・・・・・・・・
清・梁章鉅「浪跡叢談」(続談巻四)より。
おいら肝冷童子は「有名な文化人」では無いので「杯中物」とはあまり御縁が無くてもかまわないのでありまちゅるが。なにしろコドモでちゅし。精神的に。