平成25年2月26日(火)  目次へ  前回に戻る

 

今日も飲み会。明日も。今日はあたまは大丈夫ですが、ハラ苦しい。

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元和の変Cである。2月23日の続き。・・・・・・・・・・・・

凶行者の捕縛の最初の手がかりは、前回記述ありました金吾の士官を脅迫する手紙であった。

宦官に属する神策軍の士官・王士則らは、この手紙が置かれていた付近を虱潰しに探って回った。その結果、近くに軍閥中の大立者・李師道の留邸(長安出張所の役割を果たす屋敷)があることを突き止めた。

留邸に出入りする者を見張っているうちに、邸内に相当の武器が運び込まれ、また、ならず者たちが集められていることがわかったのである。

ただし、神策軍は、長安で軍閥の意見を代弁していた王承宗がしばらく前から行方不明になっていたことから、邸内に王が匿われているかどうかを確認するため、なお慎重に張り込みを続けていた。

一方、王士則らの動きとは別に、洛陽城を管轄する東都防御使・呂元膺も調べを進めていた。

呂の手下たちが得た情報によれば、

「李師道と王承宗が連絡を取って、

在京竊発断陵廟之戟、焚芻稿之積。

京に在りて竊(ひそ)かに発し、陵廟の戟を断じ、芻稿の積を焚かんとす。

ひそかに長安において兵を起こし、先君らの廟に蔵されている正規軍の武器を破壊し、貯えられている兵糧に火をつけることを計画しております」

というのである。

手下からこれらの報告を受けた呂元膺は

「これを長安の官庁に報せても、宦官どもの手に宝を握らせることにしかならんのう・・・」

とうち笑い、自らの掌握する洛陽守備隊を率いて直接長安まで乗り込み、長安の守備隊を無視して一気に李師道の留邸に踏み込んだのであった。

これに驚いたのはずっと李邸を張り込んできた神策軍であった。

「東都防御使がいったい何の権限があってこんなところへ?」

「きゃつらに手柄を奪われてなるものか!」

神策軍も大慌てで李邸に突入した。

いささかの混乱はあったものの、邸内は制圧され、呂元膺と神策軍はそれぞれに邸に潜んでいたならず者たちを捕らえたのであった。

神策軍が捕らえたのは張宴ら十八人。彼らは

言為承宗所遣者。

言いて承宗の遣るところの者と為す。

王承宗の手下たちである、と認定された。

しかし、一人として自分たちの行動について口を割らなかったから、彼らが宰相暗殺に関与したものかどうか明らかではなかった。

一方、呂元膺が捕らえたのは、門察、嘉珍というならず者たちであった。

彼らは

「わたしどもも武元衡さまを暗殺して賞をもらおうとは思っておりましたが、わたしどもは実際には武元衡さまの暗殺には関わっておりませぬ!」

と申し立てた。

自言、始謀殺元衡者、会宴先発。故籍以告師道而竊其賞。

自ら言うに、始め元衡を殺さんと謀ごとする者は、宴に会して先発す。故に籍(か)りて以て師道に告げ、その賞を竊むのみ。

彼らが言うには、

「「宴」のもとで会合を開いていたものたちが、わたしどもより先に元衡さまの暗殺をやり遂げてしまいました。わたしどもはその者たちの功績を偽って、賞に与っていただけでございます」

と。

呂元膺は扱いに困って皇帝に報告したところ、帝はその報告を聴いて、

「これでやっと神策軍が捕らえた張「宴」らが武元衡を害したことが明らかになった」

と満足された。

まず、張宴らは宰相暗殺の実行犯として

皆斬之。

みなこれを斬る。

全員斬罪に処した。

そして、李師道と王承宗を反乱罪により討伐すべき旨を天下に告げたのである。

それから、呂元膺には、門察と嘉珍について、

「罪は大ならずといえども、いずれにせよこの世に永らうべきものにあらず」

との御指示を下したので、

密誅之。

これを密かに誅す。

彼らは秘密裡に殺された。

・・・・・さて。

王承宗はすでに長安を脱出しており、李師道のもとに身を寄せていた。

やがて李師道は他の軍閥に攻略されて滅んだが、王はすでに李の幕下から別に亡命していたらしく、その後の行方は杳として知られない。

このとき李師道の府内にあった文書を調査したところ、

果有賞殺元衡之款。

果たして、「元衡を殺すを賞す」の款あり。

やはり、「武元衡暗殺の褒賞」という項目の文書があった。

その文書の中には、ちゃんと「門察と嘉珍に賞を与える」旨の記述があったということだ。

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以上、新唐書」巻162「呂元膺伝」等による。

なお、以上の記録から武元衡を暗殺した者たちの消息についてはほぼ知れたが、裴度を暗殺しようとして果たさなかった刺客については、その正体を含めとうとう判然としなかったそうである。

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ということで、「元和の変」シリーズは一応これでおちまい。2月26日の日付でこのクーデタ未遂事件についての記述を終えるのはたいへん意義のあることであーる。

ところで、この記述、「新唐書」のあちこちを引用してきているので、

「うわあ、肝冷斎さんってよく勉強しているんだなあ」

「ステキ♡♡♡」

と思ったひとがいたりするといけないので、一応正直に申し上げておきますが、実は清の大儒・趙瓯北先生「廿二史記」22の「歴史書」から重要な記述、関連する記述を書き抜いた書巻二十「盗殺宰相有二事」「唐の時代、テロリストによる宰相暗殺は二回あった」の事)を参照しました。もう一回は文宗皇帝の時代のことになりますが、これは実は未遂事件に過ぎません。また気が進んだらご紹介しまっちゅけどねー。

 

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