平成24年11月30日(金)  目次へ  前回に戻る

 

今日は朝から寒い雨が降っていた。

「死」は十一月の暮雨(ゆふさめ)のやうに こころの曠野(あれの)に降りしきる。(日夏耿之介「蛮賓歌」)

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今日は寒いので、熱くなっている人のお話しをして、温まって寝ましょう。

「史記」「孔子世家」にいう、

叔梁紇与顏氏女野合而生孔子。

叔梁紇(しゅくりょうこつ)、顏氏の女と野合して孔子を生ず。

(殷ひとの子孫という魯の士人・孔)叔梁紇が、顏一族の女と、原野において儀礼に外れたマグワイをして、それで生まれたのが丘、すなわち後の孔子なのだ。

と。

そうなのか。聖人孔子は不正規な男女の交わりによって生まれた子だったのだ・・・。

ところが、「孔子家語」「本姓解篇」を閲するに、――――

叔梁紇求婚於顏氏。顏氏有三女。其小曰徴在。

叔梁紇、顏氏に婚を求む。顏氏に三女有り。その小、徴在と曰う。

叔梁紇は、顏氏の家長に礼に則ってその族女と結婚を申し込んだのである。顏氏には、適齢期の女が三人おり、その一番若いのが「徴在」というムスメであった。

「誰か、叔梁紇のヨメになりたい者はないか。男ぶりはよいが、すでに老年に近いのじゃ」

顏父問三女。

顏父、三女に問う。

顏氏の家長は三人の娘たちに問うた。

すると、

二女莫対、惟徴在曰従父所制已而。

二女は対する莫きも、徴在のみ、「父の制するところに従うのみ」と曰えり。

二人の姉娘たちは何も言わなかったが、徴在だけは「家長さまのお定めにしたがうばかりにございます」と答えた。

そこで家長はこの娘を叔梁紇と娶せた。

しかして

生孔子。孔子三歳而叔梁紇卒於防。

孔子を生ず。孔子三歳にして叔梁紇、防に卒す。

孔子が生まれたのである。孔子が三歳のとき、叔梁紇は防の地で亡くなった。

だから、孔子は父のもとで成人したのではないのだが、父母の間の婚姻は正式なものであったのである。

――――と書いてあったのである。

むむむ・・・・

どっかーーーーん!(激怒)

孔子聖人也、紇則聖人之父也、徴在則聖人之母也。

孔子は聖人なり、紇はすなわち聖人の父なり、徴在は聖人の母なり。

孔子は聖人である。ということは、おやじの叔梁紇は聖人のおやじであり、おふくろの徴在は聖人のおふくろである。

そのような方々が社会の規則や一族の掟に外れることがあるはずがない。それは誰にも分かり切ったことであった。

しかも、

其始成婚、家語載之如此其詳。司馬遷軽以所聞誣之。其罪大矣。

その始めて婚を成すに、「家語」これを載すること、かくの如くそれ詳らかなり。司馬遷、軽んじて聞くところを以てこれを誣す。その罪大なるかな。

その結婚に至るなれそめのことが「孔子家語」にこんなにはっきりと、詳しく書いてあったのである。ところが、司馬遷のやつは、軽々しくどこかで聴いてきた伝説の類をもとに、聖人とその御両親が間違っていたかのように吹きおあったのだ。歴史に対して、なんという重い罪を犯したのであろうか。

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元・李治「敬斎古今巻三より。敬斎先生、熱いですね。そんなことで熱くなるなよ、と言いたくなってまいります。

司馬遷先生は「偉大な歴史家」みたいなことになっているけど、われわれのいう「歴史家」とはちょっと違うので、各地の伝説や神聖演劇から取材して「史記」をまとめたのです。しかも編集方針を自分で作ったわけではないおやじの代からの「世襲」歴史家。一方、「孔子家語」も伝説集というべきだし。

目くじら立ててもしようがないじゃないですかー。そんなことより、孔子の高弟である顏回やそのおやじらが孔子の母方の(そしておそらく孔子は母方で育ったのだ)親しい一族であったであろうことが垣間見えて勉強になるではありませんかー。

希代の聖人・孔子さまのご生誕じゃ。少しはふわふわした夢のような、野合や歌垣や毛遊び(モーアシビ)のような大らかな背景があってもいいじゃないですかー。

大きな気分でいきましょう。週末だしー。

 

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