今日はお名護に行ってたざます。
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さて。
をうできう
という海神(うんじゃみ)がおったそうです。
長一丈許、閘(※)大。
長(たけ)一丈ばかり、閘(※)大いなり。
※「閘」(こう)の字で置き換えましたが、ここは門ガマエの中に「甲」でなく「由」を入れた字が入ります。「きん」。「フグリ」と訓ず。
背丈は3メートル余り。きんたマがでかい。
そのきんたマのでかさ、ふんどしで包んだ上でそれを肩にかけるほどであるという。
この神、
初現那婆町、後泊亦城間、亦後国上。
初め那婆(なふぁ)の町に、後に泊(とまり)、また城間(ぐすくま)、また後には国上(くにがみ)に現る。
最初に那覇の街に出現なさられた。その後、泊(現・那覇市内)、続いて城間(現・浦添市内)、さらには本島北部の国頭地方に御出現。
近年不出。
近年は出でず。
最近は出ていない。
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すごいかっこいい。なんという男らしい神であろうか。こんな神さまが、沖縄ではついこの頃まで那覇やら浦添の大都会に出現していたのです。
これは萬暦三十三年(1605。本朝の慶長十年に当たる)という年に袋中上人の編した「琉球神道記」巻五の記述である。上人はサツマの琉球入りの直前の沖縄に入って(←サツマの前から本土の人はかなり頻繁に沖縄に行っています。沖縄と本土は、一度も切れたことはない。サツマの「侵略」まで本土とまったく独自に発展していた、という「神話」を掲げたくてしようがないひとはたくさんいるようですが)当時の王国の宗教実態を記録した。貴重な沖縄風俗の記録というだけでなく、中世末期の我が国の精神界を活写していてまことに興趣尽きない。
ちなみに袋中上人は天文十二年(1552)に奥州・磐城平(福島県いわき市)に生まれた浄土宗名越派の僧である。慶長年間に沖縄に入って浄土宗布教に務めるとともに、王府にも大きな影響を及ぼした。今に伝わる念仏踊りエイサーの始祖ともいい、その後本土に戻って畿内で活躍し、寛永十六年(1639)大和十津川に没すという。
・・・ところで名護でイ○カ食わしてもらってきた。かしこいドウブツを食べたので賢くなれるかな?