雨風強いのさー。
おいら琉球童子が数日留守にしているうちに、石狩童子や函館童子が書き込みしていたようでちゅね。
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また科学の勉強をしますよ。
―――セミとコオロギは鳴き方に違いがあるのですか。
よいところに気が付きましたよ。
蝉近陽依於木以陰而為声。蝉則腹板鳴。蛩近陰依於土以陽而為声。蛩則背翅鳴。
蝉は陽に近く木に依り、陰を以て声を為す。蝉はすなわち腹板にて鳴くなり。蛩は陰に近く土に依り、陽を以て声を為す。蛩はすなわち背翅にて鳴くなり。
セミは「陽」に近い本性を持っていると思われる。それゆえ、陽気の象徴である「木」を本拠としているのだ。声を出すときには逆に「陰」の仕組みを使う。隠す側である腹部にある鳴板をこすりあわせて声を出すのはそのゆえである。
コオロギは「陰」に近い本性を持っていると思われる。それゆえ、陰気の象徴である「土」を本拠としているのだ。声を出すときには逆に「陽」の仕組みを使う。曝け出す側である背中にある羽をこすりあわせて声を出すのはそのゆえである。
(・・・現代のみなさまの感覚では、腹が「陽」で背中が「陰」のように思われるかも知れませんね。「老子」の第42章にも
万物負陰而抱陽。
万物は陰を負いて陽を抱く。
あらゆるものは陰を背負い、陽を腹にあたためているのだ。
という湯川秀樹さんをインスパイアーした、のではないかともいわれる有名な一節があり、ふつうは「陰」が「陽」を抱く、背中の側が「陰」で、抱かれる側の腹部は「陽」だ、というのが定説になっております。これに対し、背中が「陽」、腹部が「陰」というここの説明は、古代の考え方とも違うし、特にみなさまは前向きにしか生きたことが無いでございましょうから、背中の側を見たこともないのでそちらが「陽」だと言われると違和感あるかも知れません。が、一方で、抱え込まれる腹部が「陰」で日や風に曝される背中が「陽」だ、という考え方もあるのでございます。この先生はこの考えを「定説」にしている人なのです。「定説」なのだから反論のしようがありません。)
―――でも先生、セイブツを無理に「陽」だとか「陰」だとかに分ける必要があるのですか。
「陽」か「陰」かを分類すると、そのドウブツの性質がよくわかるようになりますよ。
蝉陽性和此息而彼作、蛩陰性妬相遇必争闘。
蝉は陽性にして和、此れ息(やす)みて彼作(な)し、蛩は陰性にして妬、相遇すれば必ず争闘す。
セミは陽気なやつでお互い仲良しなので、セミの鳴くのをよくよく聞いていると、こちらの木で鳴いていたのが鳴きやむとあちらで鳴きはじめる、というように譲り合います。ところがコオロギは陰気なやつで(オンナや異民族のように)妬みがひどいセイブツなので、コオロギ同士が遭遇すると必ず争いはじめるのです。
―――先生の観察は行き届いているのでちゅねー。
そうですね。ありがとう。
陰陽の理をわきまえているといろんなことがわかってきますよ。
陽数自一而至九、無尾。陰数自二而至十、有尾。
陽数は一より九に至り、尾無し。陰数は二より十に至り、尾有り。
(↑↓は、普通のひとは何を言っているのかわけわからんと思います。普通のひとはそれでいいと思います。わかるひとの方がアタマが不健康。)
奇数は陽の数とされている(「易」以来の定説です)ので、一・三・五・七・九がそれに当たるが、九で終わっており、最後の数である「十」ではない。つまり、尻尾が無い。これに対し、偶数が陰の数とされており、二・四・六・八・十がそれに当たるが、最後の数である「十」が含まれている。つまり、尻尾があるのです。
―――はあ? それで?
そこでよくよくまわりをご覧なさい。
人無尾而物皆有尾也。
人には尾無くして、物にはみな尾有り。
人間には尻尾はありませんが、ドウブツ、例えばイヌ・ブタ・ネコ・ウシ・トカゲ・サカナ・トリ、どれにも尻尾があるでしょう。
つまり、
人為陽、物為陰。
人は陽たり、物は陰たり。
われわれ人間は「陽」の性質なのです。これに対し、ドウブツたちは「陰」の性質なのである。
われわれ人間は「陽」なので、セミのように和やかに、お互いに譲り合って暮らして行くことができるのですよ。ドウブツたちは(オンナや異民族のように)相争って同士討ちなどしたりしますけどね。
―――はあ。
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―――おっさん、あたま大丈夫か?
・・・と心配になってくるトンデモ理論なわけですが、むかしはこういうことみんなでマジメな顏して議論してたみたいですよ。わはははー。・・・でも、今みなさんがマジメな顏で議論していることも実はこのレベル・・・かも? 明・王達「蠡海集」より。