明日から春です。暖かくなるんだろうなー。楽しみだなー。
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師を囲むには必ず闕す。
包囲戦においては、必ず一角を開放しておかねばならぬ。(孫子・軍争篇)
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何氏曰く―――
後漢の初め、斉の地に割拠していた張歩を漢の名将・耿弇(こう・えん)が兵を率いてこれを討伐したのじゃ。
しかし、斉側の大将・費邑は歴下の城に籠り、また兵を分かって祝阿と鍾城の町を守らしめていた。
三城連璧
という堅陣であります。
一城を攻めれば二城の兵が救い、二城を攻めれば一城の兵が救い、三城を攻めれば兵を散じて克つあたわざるに至る。
しかも、斉攻めに時間をかけていては、なお四方に群雄の割拠する草創の時代である。各地の群雄たちが手を握りあって後漢に挑みかかってくることも予想された。
幕僚たちは耿弇に、兵を集中させて、一気に敵の本隊のある歴下の城に迫る策を進めたが、弇はこれを却下した。
「本当の敵は張歩じゃ。その前に城攻めで兵を損じては、それこそ彼奴らの思うツボぞ」
そして、弇はおもむろに全軍を一番手薄と見られた祝阿の町に向けたのである。
その際、
開囲一角。
一角を開きて囲む。
包囲陣の一角を空けさせた。
すると、大軍を目の前にして動揺した祝阿の守兵は
奔帰鍾城。自晨攻城、未日中而抜。
奔りて鍾城に帰す。晨より城を攻むるに、いまだ日中ならずして抜けり。
奔走して、包囲の欠けた一角から鍾城に逃げ込んでしまった。鍾城の側は援軍を出す前に、逃げ込んでくる兵の収容に忙殺され、結局、朝から攻撃を始めて、昼前には陥落してしまったのである。
さらに、
鍾城人聞祝阿以潰、大恐懼、遂空壁亡去。
鍾城人、祝阿の以て潰せりと聞き、大いに恐懼してついに壁を空しくして亡去す。
鍾城のひとは、祝阿が陥落してしまったというので、大いに恐慌を来たし、とうとう城壁をそのままにして逃げ去ってしまった。
耿弇は孤立した歴下の包囲に一隊を残して、斉の地にほぼ無傷の兵を進めたのであった・・・。
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後漢の終わり、朱儁と徐璆は黄巾賊の残党を討滅するために従軍していたのじゃった。
黄巾賊の一軍を率いていた韓忠は、宛の町を根拠にしていたが、降伏して後漢軍に編入されんことを乞うたが、朱儁らはこれを許さなかった。
討滅しなければ手柄にならぬ。さらに、すでにこのころは各軍は軍閥化していたから、韓忠の軍が後漢軍に編入されるということは、自分たちと競合する競争相手が増えるだけだったのである。
朱儁らは宛の町を力攻めした。
が、勝たぬ。
自軍の損害が連日増えるばかりである。
そこで、儁は高所に登って町を見下ろしてみた。
そして、幕僚の張超を振り向き、莞爾として言うた。
吾知之矣。
吾、これを知れり。
「ふふふ、わかったぞ」
「何が、でございますか」
「賊兵どもは外からの包囲が厳しく、追い込まれて逆に城内に兵が集中して、守備が固くなっておるのじゃ。また、降伏しようと申し出たのに、これを断られたので、
欲出不得、所以死戦也。
出でんと欲するも得ず、死戦する所以なり。
街から逃れ出ようとしてもそれもできず、死にもの狂いで抵抗するわけじゃわい」
「・・・どうされます? 降伏をお受けになりますか」
「あほう。やつらを受け入れられる余地はない。やつらはわれらの餌食として、このまま全滅してもらわねばならぬのじゃ」
「はあ・・・」
「ふん。とりあえず、
今不如撤囲。忠見囲解、則勢必自出、出則意散、易破之道也。
今は囲みを撤するにしかず。忠、囲みの解かるを見れば、すなわち勢必ず自ずから出でん、出づれば意散す、破りやすきの道なり。
いまは包囲を解くのがよさそうじゃな。韓忠は包囲が解かれるのを見れば、勢いとして必ず自ら外に出て闘おうとするじゃろう。そうすれば守備側の気持ちはばらばらになる。これぞ、敵を簡単に破る良法である」
果たして、兵を下げて囲みを解いてみると、
忠出戦。
忠、出でて戦う。
韓忠は城門を開いて討って出てきた。
これを大軍を以て攻めたて、まるで家畜を屠るかのようになぶり殺したのであった。
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魏の太祖・曹操が壺関城を囲んだときのことじゃが・・・
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まだ、あと二つ戦績が記されているのですが、肝冷斎は明日しごとなのです。なのに、「うわあ、こんな時間か」というような深夜になっていた。今日はむかしの仲間と飲み会で、帰ってきたときに既にすごい時間になっていたのだった。わあ明日どうするんだよー!
よって十一家注「孫子」・囲師必闕章・何氏注の御紹介はこれで終わり。
何氏は五代から北宋ころの人であろうということだが、その名や閲歴を知られないひとである。