東北の頑冥斎っす。本家・肝冷斎先生が昨日からどこかにサボりに行ってしまっている間に、立春。これからどんどん暖かくなるんだろうなー。うれしいだなー。
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本日、頑冥斎は
みちのくは安積の沼の花かつみ
とて、F島の郡山に行っておりました。
郡山といえば安積艮斎先生の出身地です。
艮斎・安積(原姓は安藤なり)佑助は安積國造神社の神主家の三男に生まれ、少時より儒学の教育を受けた田舎の上流階級の方でございますが、婿養子に入った先で「風采が悪い(キモメンである)」というて冷たくされた由。ここから人生大いに転回して、ついに出奔して江戸に出、佐藤一斎の学僕(小使いさん)から身を起こし、二本松藩儒、昌平黌教官にまでなられた立志伝中の人物であります。
はじめ学僕で後に同僚の立場になった一斎先生とはいろいろ心の通わぬこともあったそうでございます。まあ当然でしょう。一斎にも、自分より人気教授になった艮斎に愉快ならざるところあったでありましょうし、艮斎は「風采が悪い」ことで冷遇された恨みがあった。表面は元・師弟として飾りながらのギスギスした人間関係、ああイヤにござりまする。
・・・が、まあ、よいわ。現世のクビキから離れれば、わしらも楽になれます。わしらもいずれ楽になれますのじゃから、その日を夢見て、明日もがまんして生きることにしよう・・・。
↓は安積國造神社に付属の「艮斎記念館」で写してきた。
秋日雑吟
書窗寂寞旧青氈、 書窗寂寞として旧青氈(せん)、
凉冷侵肌欲著綿。 凉冷肌を侵して綿を著けんと欲す。
晴少午花猶有霞、 晴れ少なくして午花になお霞有り、
雨多秋樹已無蝉。 雨多くして秋樹にはすでに蝉無し。
丹心一片誰相識、 丹心一片 誰かあい識らんや、
白髪数茎秖自憐。 白髪数茎 ただ自ら憐れまん。
悔不紅塵揮手去、 悔ゆらくは、紅塵に手を揮うて去り、
五湖長泛釣魚舩。 五湖に長(とこ)しえに釣魚の舩(ふね)を泛べざることを。
「秋のうた」
書斎の窓から外をみるともう寂しくなってきましたのう。古い青い敷物を敷いていても、
寒さが身を刺すようになってきましたので、わしは綿の入った服を着ようと思います。
晴れてあたたかな日はあんまり無くて、昼間も花にはかすみか霧がかかっている。
雨の冷ややかな日が多いので、秋の木々にはもう蝉は鳴かない。
このわしの心臓に脈打つ赤い真心を、誰が知ってくれているものか。
このわしのあたまに生えた数本の白髪とともに、自分で自分に同情するばかり。
自分がイヤになってきましたわ。どうして、紅の塵舞う市街地でつないだ手を振りほどき、
とわにあまたの湖の間に、魚釣り舟を浮かべて隠れてしまわぬのか。
頸聯の
丹心一片誰相識、 丹心一片 誰かあい識らんや、
白髪数茎秖自憐。 白髪数茎 ただ自ら憐れまん。
が高く評価されているが、わしはやっぱり尾聯に共感します。みなさんもそうでしょう? え? ちがう?
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艮斎先生、五十歳のころ駿河台に借りた家にわずか二三丈四方の枯れた池があったそうで、己亥の歳(天保十年、1839)の夏、これを浚えて新たに水を入れ、まわりに小さな木を植えた。
風吹けば細波湧くも、風無ければ平坦なること鏡のごとく、筧より落とす泉水の音が雨の音のようであった。
そこで、
命童買小魚数十頭。
童に命じて小魚数十頭を買わしむ。
童子に命じて、ちっぽけな魚を数十匹買ってこさせたんじゃ。
「買ってまいりまちたー。びちびちしていて元気でちゅよー」
と童子が飼ってきた魚どもを池に放った。
びちびち。ばちゃばちゃ。
こいつらがヒレを張り、尾を振り回し、あるいは泛びあるいは潜り、まるでひろびろとした海か川にいるように楽しげであるのを見て、わしも楽しくなった。
そこでわしは思いましたぞ。
魚頑冥無知之物也、惟其無知、故不動於欲。
魚は頑冥にして無知の物なり、これそれ無知、ゆえに欲に動かず。
こいつらは頑冥で知恵の無いやつらでござる。その知恵の無さのゆえに、ああしたいこうしたいという欲望に動かされることがない。
こんな小さな池の中に囲い込まれていても悲しむことはないし、海なり川なりのひろびろとしたところに放たれても喜ぶわけではござらぬ。
一游一泳、不願于外。是能楽天物也。
一游し一泳し、外に願わず。これ、よく天を楽しむ物なり。
ひと浮かびし、ひと泳ぎするばかりで、それよりほかのことを願望するわけではない。これは、天に与えられたものをよく楽しむいきものである。
けだし、
天之生万物、各有大小。小之不可為大猶大之不可為小。小者不必羨大、大者不必凌小、各全其所稟安其処遇、此之謂楽天。
天の万物を生ずるや、おのおの大小あり。小の大を為すべからざるは、なお大の小を為すべからざるがごとし。小者は必ずしも大を羨まず、大者は必ずしも小を凌がず、おのおのその稟(う)くるところを全うし、その処遇に安んずる、これをこれ、「天を楽しむ」と謂うなり。
天がよろずのモノを生み出したとき、それぞれのモノに大きい・小さいというかたちを与えたのじゃ。
小さいものが大きくなれないのは、大きいものが小さくなれないのと同じ。だから、小さいものは大きいもののようになりたいと羨ましがらないし、大きいものは小さいものをいじめたりなぶったりしない。みんな、それぞれが天からいただいたものを全うさせ、天に与えられた処遇に安んじる。
これを、「天を楽しむ」というのである。
ところが、どういうことであろうか。
人也物之霊、乃欲逞溪嶽之欲。
人や物の霊たり、すなわち溪嶽の欲を逞しうせんと欲す。
ニンゲンというのは万物の中でもっともすぐれた精神を持っており、そのニンゲン(であるわし)は、溪谷や山岳に去って自由に生きようという欲望を強く持っている。
それなのに、
戚戚如在囹圄。何也。
戚々然として囹圄(れいご)にあり。何ぞや。
いつまでもちぢこまって牢屋のようなところ(現実社会)に囚われている。これはどういうことなのじゃ!
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「養魚記」(「近世名家小品文鈔」巻中所収)より。
わしも、行くだ! みなといっしょに溪嶽のぱらいそさ、行くだ! と言いたくもなってまいりますなあ。
ちなみに、「艮斎」の「艮」(ごん)は易の八卦の一で、後天説において方角としては「うしとら」をさす。「うしとら」(丑寅)はすなわち「東北」であり、江戸に出た艮斎が故郷の陸奥・安積を偲んで自ら号としたのである。艮斎先生のこと、一昨年ごろ書いた記憶があります。要するに「風采がどうたら」と自分で言っている話です。が、いつか忘れたので、そのうちわかったらリンクしますね。
さらにちなみに、艮斎記念館に寄った後、「安積歴史資料館」、「開成館」(安積開拓資料あり)に行ったが、どちらも東日本大震災で被害受けて休館中! 駅前の看板に宣伝ばかりしておかないで、ちゃんと休館中って書いておいてよ〜。「郷やわら美術館」は展示品入れ替えのために休館中。かなり怪しからん。