昨日ちょびっと御伽衆のしごとに呼ばれているうちに、頑冥斎にHPを乗っ取られるところでしたわい。
さて、昨日は去るお方に御伽を命ぜられて、いわゆる「闘蟋」にまつわる話をしてきましたのじゃ。チャイナ近現代の風俗である「闘蟋」については、みなさまもようく御存じでしょう。コオロギを闘わせ、その勝敗によって賭博をする。昨日の御伽で申し上げて来ましたのは、清の時代のこと、「郷言解頤」に記載の事件で・・・え? 「闘蟋」には興味はない? そうですか。う〜ん、残念。おもしろい話なのになあ・・・。
それでは、それは又の機会といたしまして、今日は「五代十国」の十国の一である呉國の太祖(死後の諡号である。本人は「呉王」を名乗った)である楊行密のことを少し話しましょう。
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楊行密は合肥のひと、若いころは三百斤(180キロ)のものを持ち上げた怪力であった。そのころから、
居常独処必見黒衣人侍其側。
居常、独処に必ず黒衣人のその側に侍らうを見る。
いつも、ひとりいるときに、必ず黒い服を着た男が自分の側に控えているのが見えるようになった。
「おまえは誰だ?」
と問うても、それは何も答えないのだそうだ。
行密は、その黒い服の男について、
「そのうち気にならなくなった」
と言っていたが、多くの部下や妻妾を持つようになってからも、時おり一人になって誰かと密談するふうなときがあったという。
さて、行密の妻は朱氏で、その兄を朱延寿といった。
知恵も度胸もある男だったから、行密は重用していたが、あるひとに、
「延寿どのは朱姓ゆえ、梁(五代の後梁。唐を滅ぼして朱全忠が建てた)の朱姓の皇帝と、どうも深くつながっているように見えまする」
と忠告された。
「義兄上を疑うことがあろうか」
と行密は笑ってとりあわなかったが、しばらくすると、行密は眼病にかかってしまった。
はじめは物が霞んで見える程度だったが、しばらくするとまったく見えなくなった。
まわりの援けを借りて、何とか政務や軍務を取り仕切る状況である。
凡三年、其妻旦夕視其動静以為信。
およそ三年、その妻、旦夕にその動静を視るに、以て信と為す。
それから三年、妻の朱氏は朝な夜なに行密の行動をそばで見ていたが、目が見えないのは真実であると思われた。
確信したのは、彼女がある日、昼間から
私於隷僕。
隷僕に私す。
下僕の男と乳繰り合うていた―――
ところに、行密が現れたときである。
彼女は一瞬驚いたが、行密は二人の目の前でもまったく気づかないようで、彼女が男を追いやって襟を直しながら夫に声をかけると、
「おお、朱氏よ、そこにいたのか」
と手さぐりで彼女の方に近づいてきたのであった。
それ以来、朱氏は行密に隠すところがなくなり、兄から寄せられる密書も平気で夫の前で見るようになった。
ある日、行密、朱氏に言いて曰く、
吾目疾不瘳矣。諸児且不克省軍府之事。当属於舅。汝宜召之。
吾、目疾瘳(い)えず。諸児まさに軍府の事をよく省せざらん。まさに舅に属すべし。なんじよろしくこれを召せ。
「わしの目はもう治らないであろう。むすこどもはまだまだ軍政のことを処断することはできまい。義兄上にあとをお願いするしかないと思う。おまえから義兄上を呼び出してはくれまいか」
そこで、朱氏は、朱延寿に手紙を書き、呉王国を乗っ取ることができそうだとしたためて、呼び寄せた。
朱延寿が配下を率いて王宮に到着すると、目を閉じた行密が近侍の者に手を引かれながら出迎え、
「ぜひ二人だけで話し合いたい」
と王宮の正庁に案内した。
二人、相対して座る。
行密は近侍の者を手真似で下がらせる。
二人だけになった。
行密はおもむろに口を開いた。
「さて―――、義兄上・・・」
「何でござるかな」
―――國を譲る、との言葉が出るのであろうと朱延寿がのどを鳴らした瞬間、行密は、
俄而開目、曰、数年不見舅、今旦果相覩。
俄にして開目し、曰く、「数年舅を見ず、今旦果たして相覩(み)たり」と。
突然、両の目をくわっと開き、
「何年も義兄上を見ることが無うござったが、今日はようやくお姿を拝見することができましたなあ!」
と大喝したのであった。
延寿惶駭。
延寿、惶駭す。
朱延寿は驚き、慌てた。
行密は続けて
「わしは、義兄上のやっておられることもすべてこの目で見ておりまするぞ!」
と呼ばうや、ばん、と床板踏んで立ち上がり、背後に飛び退った。
その瞬間、部屋の奥から、ばらばらと屈強の兵士らが朱延寿と行密の間に飛び込んできた。
潜兵以見之。
兵を潜ませて以てこれに見(あ)うなり。
会見の前に、兵士らを潜ませてあったのだ。
「ま、待ってく・・・」
「やれ!」
遂叱勇士、執而殺之。
遂に勇士を叱し、執してこれを殺す。
行密の命で、延寿は命乞いの前に兵士らに取り押さえられ、頸動脈をきれいに斬られて、血の海の中に突っ伏した。
ついで、
廃其妻焉。
その妻を廃せり。
妻を離縁し、追放した。
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すべてはまるっとお見通し―――だったのですなあ。
楊行密はこういうひとだったのですが、一方で男らしく、一度自分を裏切った男でもそれが義のためであったと知れば逆に信頼し、丸腰でその男のもとで宴会もしたそうです。
また、あるひとが行密が朝の洗面をしているのを見たことがあったが、右手だけで百余両(数十キロ)もあろうという器を頭の上まで持ち上げ、
水満其中而洗項。
水、その中に満ちて、項(うなじ)を洗う。
その中に満々と水を満たして、それで自分のうなじ(首の後ろ側)を洗っていた。
これを見てそのひと、
力挙三百斤、不謬矣。
三百斤を力挙すというは、謬(あやま)たざるなり。
三百斤(180キロ)のものを持ち上げた、というのはうそではなかったのだ。
と感じ入ったとのことである。
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宋・闕名氏(←著者不明、の意)「五国故事」上より。
かっこいいですねー。楊行密にはほかにもいろいろエピソードが・・・。しかし、こんな話より「闘蟋」の話の方がおもしろいのになあ。聴きたくない、なんて残念だなあ・・・。