平成23年11月16日(水)  目次へ  前回に戻る

 

ああ。感情が減ってきました。ウツのはじまりか。

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ある道学者(明代では朱子学を奉じるゴチゴチの儒学者を侮蔑していう言葉であった。道学者は朱子学の権威を背景に、決まりきったスローガンをいくつか持っている)がいつもいつも言っておりましたことには、

天不生仲尼、万古如長夜。

天の仲尼を生ぜざれば、万古長夜の如からん。

天が孔子を生じさせなかったら、世界はずっと闇の中だったであろう。

と。「仲尼」は孔子、名・丘の字である。

(ちなみに「仲」という字が字についている、ということは、孔子は「伯」(長男)ではなく二番目の男の子だった、ということになります。孔子の兄貴というのはどういう人だったのだろう?ということについて、長く宿題にしてありますが、間もなくご報告できるでしょう。)

儒学者の中でも、朱子学者は特に孔子を神格化し、それを尊崇する度合いが強い。この道学者もたいへんな孔子信者で、孔子がいなければ人類の文明は開けなかったのだ、というスローガンをいつも掲げていたわけである。

「そうですか、そうですか」

このスローガンを聞いた劉諧という文人、口元にイヤミな笑いを浮かべながらその学者に問うた。

怪得羲皇以上聖人、尽日然燭而行也。

怪しみ得たり、羲皇以上の聖人、尽日燭を然(も)やして行うか。

これは不思議なことじゃ。孔子以前、超古代の、伏羲(ふっき)、神農らの諸聖人は、一日中、ともしびを燃やして行動していたのか。

道学者がわたしどものように近現代の智慧を持っていたら、

「そのひとたちは超古代の氷河期の方々だったのだ」「超古代の核戦争による「核の冬」の中で暮らしていたのだ」

などと反論できたかも知れませんが、そんな智慧はありませんので、彼は恨めしそうな顔をして劉諧を睨むばかりであったという。

・・・・・・・・と、明の鍾伯敬「諧叢」という笑い話集に書いてあります。

この劉諧というひとは、翰林院にも奉職した名文家ですが、

性刻薄而有口才。

性刻薄にして口才あり。

性格は冷たくて、口先が達者であった。

という怪しからんひとであったそうで、おやじが隠居することになり、長男と次男の劉諧に財産を分与したとき、一家の生産を支えてきた幹僕(家の幹になるような下僕。商家なら筆頭の番頭さんです)をおやじは長男の方に与えた。劉諧は「ぜひわたしの方にくだされ」と頼んだが、おやじは

兄弟左右手耳、彼此何別。

兄弟左右の手なるのみ、彼・此何ぞ別せん。

兄弟は左右の手のようなものじゃ。あちらとかこちらとか別々だと考える必要はないじゃろう。

財産は分与はするが、これからも生産については助け合っていけばよく、だから「幹僕」は兄貴の方につけるが、おまえの財産も一緒に運用していけ、というようなことを言った。「兄弟は左右の手のようなものだ」というのは宗族制をとるシナ近世の地主階級の経済活動上のスローガンであります。

劉諧は仕方なく引き下がったが、このひとは、こういうスローガンにどうしても反発してしまうひとだったらしい。

ある日、おやじが背中が痒くてかなわず、右手を後ろに回して痒いところを掻こうとしていたが、手が届かないでいるところへ、ちょうど諧がやってきた。

おやじは、諧に

舒右手使掻痒。

右手を舒(の)ばして痒きを掻かしめよ。

「おい、わしの右手を引っ張って、わしの痒いところに届かせてくれんか」

と言うた。

諧は

「あい」

と返事をして、おやじの側に寄ると、

取左手掻之。

左手を取りてこれを掻く。

おやじの左手をつかむと、これを引っ張って掻かせるようなしぐさをした。

おやじは

誤矣。

誤まてり。

「こら、間違っておるぞ。左手ではなく右手を引っ張ってくれ、というとるのだ」

と叱ったが、諧は口元にイヤミな笑いを浮かべながら、

左右手彼此何別。

左右手の彼・此、何の別あらん。

「左右の手について、あちらとかこちらとかどうして別々に考えることがありましょうか」

とうそぶいたのであった。

其雖親必報如此。

その親といえども必ず報うることかくの如し。

このように、肉親に対してでさえ、必ず仕返しをするひとであったのだ。

という。

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明・馮夢龍「古今譚概」巻二十五より。

こんな智慧のまわるひともいるのに、わしはなんと愚直で、毎日毎日わしらへの会社からのスローガン「上には叩かれ、下には突き上げられよう」に忠実なことであろうか。

今日は畏友SH氏が職場にお見えになられたので雑談した。ニホン社会の行く末など、目を開かされることしきり。やはり愚直なものは消え去る運命なのだなあ。

 

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