動きました。
毎日、動くかどうかわからないので、動いたときに何の更新をしようか悩んでしまいます。この調子ではいつ最後の更新になってしまうかわかりませんしねえ。
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清の末ごろのことでございます。惇親王というお方はたいへんお酒の好きな方であられた。
お宅にお客さまが見えると、お酒を出す。おつまみも出す。
しかし、
不許賓客下箸、惟対飲終席。
賓客に下箸を許さず、ただ対飲して席を終う。
お客にはおつまみ以外の料理を食べるためにお箸を使わせることはせず、宴の果てるまで、ただ向かい合ってお酒を注ぎあうだけなのである。
はじめて誘われて勝手知らぬお客が空腹に耐え切れずに料理を求めると、真顔で頷いて包子(肉まん)を持ってこさせる。
これを食べたお客は、しばらくもぐもぐと口を動かして、その肉まんを飲み込もうとするのだ―――
が、絶対に飲み込めない。
感其辛辣、不能下嚥。
その辛辣を感じ、下嚥するあたわざるなり。
あんまりカラいので、飲み込めないで吐き出してしまうのである。
親王は客が辛さに涙ぐんでいる姿を見て、声を上げてお笑いになるのだから、
太悪作劇矣。
はなはだ悪しく劇(はげし)きを作すなり。
あんまりにも酷いことである。
ただし、親王がこの肉まんを出すのは、翰林の名高い文人たちだけであり、ご親戚や普通の友だちには空腹を訴えられても何も出さないのであるから、これを戴いたものは名誉なことである。
ところでこの有名な肉まんには何が詰められていたのか。経験者に訊ねてみたところ、
秦艽餡包子(しんきゅうあんぱおず)
秦艽(しんきゅう)を潰して餡状にしたものをくるんだ饅頭
であったという。
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と、清末〜民国のひと崇彛の「道咸以来朝野雑記」に書いてあったので、紹介してみました。
「秦艽」(しんきゅう)は「秦芁」(しんこう)とも書きまして、古来薬草の一種とされ、秦中に出づ、という。寺島良安の「和漢三才図会」を閲するに、
和名:都加里久佐(とがりぐさ) といい、「本草綱目」によれば、山谷に自生しその(薬用に用いる)根は互いに「交糾」(結ぼれあい巻き付きあっている)しているので、「艽」の名があるという。根の長さは一尺ばかり、茎は五六寸、旧暦の六月の暑熱のころ、葛の花に似た紫色の花を開き、その月のうちに種をつくる。味は、苦く辛い。黄疸や消渇の病に用いる。
ということであるから、
秦艽餡包子
は実は体によい食べ物だったのである。・・・・
―――下らん。
こんなのが最後の更新になると哀しいことであるので、また次回もPCが動きますように、祈りつつ筆を擱きます。
末筆ながら、「道咸以来朝野雑記」は、アヘン戦争前後の道光(1821〜50)、咸豊(1851〜61)年間から民国の1930年ごろまでの間の北京に関する朝廷の内外を含めた事件・建築物・風俗・噂話などの筆記(メモ集)である。
著者の崇彛(すうい)はモンゴル族のひとで、巴魯特氏、字は泉孫といい、巽庵と号した。清の末に戸部の役人をしていたらしいが、その祖父が道光・咸豊年間に活躍した大学士・柏俊、字・泉荘というひとで、このひとは試験の不正を問われて死罪になってしまった。背景には当時の政争があるらしいのですが、崇彛はこの祖父を尊敬していたので自らの字を「泉孫」とした・・・そうですが、とにかく、同書は封建末期の風俗を活写する貴重な記録として名高い。