ばけものめ。
これ↓もばけものかも知れぬ。
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周の九鼎といえば――――
もともと夏の宝器であったが、徳ある者のもとにしか止まることはないとされ、夏の末年、桀王の悪政に対して起ち上がった商国の成湯・乙(殷の湯王)の手に移り、代々の殷王に引き継がれた後、暴君として名高い殷の紂王を討滅した周の武王の手に入った、という。
時代は下り、紀元前606年のことでございます。
周王の権威はもう誰の目で見ても衰えはじめていた。
この年、蛮族を討伐したついでに周国の都・雒邑の近くまで来往した楚王が、
問鼎之大小軽重焉。
鼎の大小・軽重を問う。
その鼎がそれぞれどれぐらいの大きさか、どれぐらいの重さか、問うた。
伝国の宝とされる九鼎について問うことで、象徴的に周王国の正統性について問うたわけである。周王朝の道徳的な大きさはどのようなものか。それは、楚国に持って行けるものではないのか。楚国でも作れるものなのではないか。だいたい、そんな正統性なんて、もともと周にあったのかな?
これに対し周の定王の使い・王孫満は
「ふほほほー」
と(婦人のように)笑い、
在徳不在鼎。
徳に在りて鼎に在らず。
「徳の問題ですのや。鼎の問題やおまへん。
むかし夏の全盛のときに、貢がれた九枚の黄金を鋳て鼎を作り、その表面に四方の各地の特産や怪物(地霊)を鋳込んで、世界の地理がわかるようにしました。そのおかげで民は川や山や沼や沢がどこにあり、そこでどんなものが採れるか、そこにはどんな魑魅魍魎が棲んでいるのか、知ることができるようになった。これが九鼎でございますのや。
後、夏の徳衰えると鼎は商(殷)に遷って、その王統の続くこと六百年、殷の紂王が暴虐であったのでこの鼎は周にうつり、二代目の成王さまが成周の都に安置申し上げた。
徳之休明、雖小重也。其姦回昏乱、雖大軽也。
徳の休明なるや、小といえども重なり。それ姦回昏乱せば、大なりといえども軽なり。
徳がゆったりと明らかなときには、それは小さくても重く、動かすことはできませぬ。悪いことが繰り返され、混乱が起これば、どんなに大きくても軽々と動かすことができる。
これはそういうものなんです。
成王が鼎の場所をお定めになった際、
卜世三十、卜年七百、天所命也。周徳雖衰、天命未改、鼎之軽重、未可問也。
卜して世は三十、卜して年は七百、天の命ずるところなり。周徳は衰えたりといえども、天の命はいまだ改まらず、鼎の軽重はいまだ問うべからざるなり。
占ったところ、周の王は三十代、年数を占うと七百年、周の時代が続く、と出た。これが天の命令である。周王国の権威は衰えてきたのは確かであるが、まだ天の命令が改まってほかの国に下った、という状況にはなっておりません。鼎の軽い・重いはまだ問題にはでけしまへんのや」
と答えて、楚王の野望を一蹴した――――
―――という「鼎の軽重を問う」の故事で名高いモノであります。(左伝・宣公三年)
ちなみに、周王朝は三十代、ちょうど七百年ほどで滅びます。
「おお、予言は当たったのだ! 古代中国の智慧のすごいことよ!」
などと誤解しませんように。
いつも申し上げておりますが、「春秋左氏伝」という書は、「予言というのは当たるものだ」ということを証明したいひとたち(←言い換えれば、●●が王となる、みたいな予言を流しておいて、その予言どおりになることを望んでいるひとたち、ですね)が、歴史を後から振り返って当たった予言だけを集めた(あるいはでっちあげた)、という性格のものですから、当たっていて当たり前なのである。
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本日は、その九鼎について、たいへん重大な追加情報を入手したので書いておきます。
昔むかし、夏の国のはじめころ、開王(禹の子とされる啓王のことであるという)は、風のことをつかさどる飛廉に命じて、山や川から黄金を取り出し、昆吾の地で鼎を鋳た。神器の製作は大事業である。この作業が上手く行くか否か、作業に入る前に、翁難雉乙という術士に命じて占わせた。
その占いに曰く、
鼎成。
鼎は成る。
鼎の製作は成功するであろう。
「ふむ。よろしい」
王は頷いた。
しかし、占いはこれに止まらなかった。雉乙は何かに憑かれたもの特有の恍惚の顔をして占辞を続ける。
この鼎は、
四足而方、不炊而自烹、不挙而自蔵、不遷而自行。
四足にして方、炊かずして自ずから烹(に)え、挙げずして自ずから蔵し、遷さずして自ずから行く。
四本脚の四角い鼎じゃ。この鼎に容れたものは炊かなくても煮えるであろう。この鼎は担がなくてもその収蔵場所に戻るであろう。移動させなくても移動するであろう。
自ら熱を持ち、また、まるで、四本足のドウブツのように自分で行くべきところへ行く、というのである。
・・・後日、昆吾の洞穴で、鼎の完成の祭祀を行った。
このとき、また雉乙が神がかって叫び始めた。
饗矣。
饗せり。
神々はこの祭祀を享けたり。
さても、この鼎は
逢逢白雲。一南一北、一西一東。九鼎既成、遷於三国。
逢逢(ほうほう)たる白雲ぞ。ひとたびは南しひとたびは北し、ひとたびは西しひとたびは東す。九鼎既に成り、三国に遷らん。
ひょうひょうと流れる白雲と同じ。あるいは南に行きあるいは北に行き、あるいは西に行きあるいは東に行く。九の鼎は完成の後、三つの国に伝えられることであろう。
その言葉どおり、九鼎は
夏后氏失之、殷人受之、殷人失之、周人受之。夏后殷周之相受也数百歳矣。
夏后氏これを失いて殷ひとこれを受け、殷ひとこれを失いて周ひとこれを受く。夏后・殷・周の相受くるや数百歳なり。
夏王の一族が手放して殷の一族が入手し、殷の一族が手放したあとは周の一族が手に入れた。この間、夏王の一族、殷、周、それぞれ数百年の間は保っていたのである。
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「墨子」耕柱篇・第四十六より。
四本足で歩く鼎の姿を想像するとオモシロいので記録しました。この「自動鼎」は自らの意志を持つ生き物だと考えられますので、「鼎」ではなく「かなえちゃん」と表記すべきでしたかなあ、あはははは。ああ、オモシロい。 →関係ある?