今日は快晴のもと、大学野球を観た。試合はともかく、若いころ思いだしてなみだにじんで来ました。
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わしが三つのときであった(・・・と思うのだが)。
見四五小児、彩衣金釧、随余嬉戯、皆呼余為弟、意似甚相愛。
四五小児の彩衣・金釧したるが、余に随いて嬉戯し、みな余を呼びて弟と為し、意は甚だ相愛するが似(ごと)し。
「釧」(セン)は「くしろ」と訓じ、「かざる」の名詞形「くさり」の転である(と「大言海」に書いてある)。腕飾りの意。鈴をつけるものもある。
彩色した服を着、黄金の腕輪をした(←祭りの稚児をイメージさせる)四人か五人の子どもがまわりにいて、わしと一緒に楽しく遊んだ覚えがある。その子どもたちはみんなわしのことを「おとうと」と呼んで、たいへん大切にしてくれているように感じた。
しかしこの子どもたち、わしが
稍長時乃皆不見。
やや長ぜる時、すなわちみな見えず。
少し大きくなったころには、一人もいなくなってしまった。
七つか八つごろになったころ、おやじどのにその話をした。
「おいらが小さいときには、お兄たん・お姉たんがたくさんいまちたよねー」
すると、おやじどのは何か考え込むようであったが、ややしばらくしてから曰く、
「う〜ん。・・・・おまえの母さんをヨメにもらう前に、わしには別のヨメさんがいたのじゃ。つまり、お前の「前の母さん」じゃな。
汝前母恨無子。
汝の前母、子無きことを恨む。
おまえの前の母さんは、自分に子どもがいないのを大変残念なことと思っておった。
そこで、いつも出入りの尼さんに頼んで、
以彩絲繋神廟泥孩帰、置于臥内、各命以乳名、日飼果餌、与哺子無異。
彩絲を以て神廟に泥孩(でいがい)を繋けて帰らしめ、臥内に置きて、おのおの乳名を以て命じ、日に果餌を飼して子を哺すると異なる無し。
子どもの泥人形をいくつか作り、これを尼さんに預けて神殿に持って行ってもらい、そこで(神像との間に)色糸を懸けて繋ぎ(神霊をいただいて)また持って帰ってきてもらった。この人形を寝室の中に置いて、それぞれに子どもの名前をつけて、毎日お菓子を、まるで子どもに食べさせるように供えていたのじゃった。」
「へー」
死後、吾命人瘞楼後空院中。
死後、吾、人に命じて楼後空院中に瘞(うず)めしむ。
「その人が亡くなったあと遺品を整理したとき、わしは使用人に命じてその人形たちを、やぐらの裏の空地に埋めさせたのじゃ」
「ほー」
おやじどのはそこでまた少し考え込んでいるふうであったが、やがて、
必是物也。
必ずやこの物ならん。
「おそらくそれだろうなあ・・・。そんなことになっておったとはなあ・・・」
と言ったのであった。
それから、使用人頭の鄭じいを呼び出して、
恐後来為妖、擬掘出之。
恐らくは後来妖を為さん、擬してこれを掘り出だせ。
「おそらく後々わざわいを起こすのではないかと思う。埋めたところを思い出して、それらを掘り返せ。
そして粉々にしてしまえ」
と命じた。
わしはあんなに仲良くしてくれた兄・姉がわしの言葉のせいで粉々にされてしまうかと思うと居ても立ってもいられなくなり、
「こわさないでくだちゃいーー!」
とおやじどのに向かって泣き喚いたものである。
後で使用人頭の鄭じいはわしの頭を撫でながら、
歳久已迷其処矣。
歳久しくしてすでにその処に迷えり。
「もうだいぶん年月も過ぎてしまっていましたからな、どこに埋めたかわからなくなってしまって掘り出せませんでしたな」
と教えてくれたものであった。
―――が、今思うとあの鄭の言葉も、わしへの慰めであったのかも知れぬ・・・。
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乾隆の大学士・紀暁嵐の「閲微草堂筆記」中「灤陽消夏録」巻五より。黄金色の少年時代、もう死んだおやじ、もう今はあのころの鄭じいより年上になった老いたわし・・・・なみだ出る。
でもよく考えてみると、泥人形がニンゲンになるはずが無いではないか。こいつもこいつのおやじも実はバカ?