平成22年10月30日(土) 目次へ 前回に戻る
台風ももう過ぎましたなあ。
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後漢の末年、外戚と宦官が政をほしいままにしたころ、気節ある在野の士人たちは国家を滅ぼすものとして、これを悪んだ。これに対し政を専らにする側からの攻撃も熾烈を極め、桓帝のとき、陳蕃、李膺らが宦官を攻撃したのに対して、彼らを「党人」と呼称し、党派を立てて帝権に敵対する者とみなして終身禁錮の措置をとった。これが「党錮」であるが、さらに霊帝の時には、陳蕃や竇武らが実力行使して宦官を誅さんとした謀が明らかとなり、その徒党百余人が処刑され、その親族すべて辺地に流されたので、これを含めて「党錮の禍」と称する。
漢末名士、乃是真名士。
漢末の名士はすなわちこれ真の名士なり。
後漢の末の名士といわれた人たちこそ、自分たちの生死をかけて国家と道義のために尽くしたまことの名士というべきひとたちである。
と言われる所以である。
ところで、儒学は古代から綿々とあったが、これを近代的に解釈しなおしたのは宋代の儒者たちである。北宋の周濂渓、程明道・伊川兄弟、張横渠、南宋の張南軒、呂東莱、陸象山、葉水心・・・、中でも朱晦庵(朱子)はその「宋学」ともいわれた新儒学を集大成した。晦庵自身は「道学の禁」による弾圧の中で死んだが、その教学は瞬く間に士大夫たちの間に信奉され、南宋の後半には魏鶴山、真西山らの名儒が輩出した。
宋世儒者、乃是真儒者。
宋世の儒者はすなわちこれ真の儒者なり。
宋の時代の儒者はそれ以前の儒者とちがって、「聖人学んで至るべし」(誰だって努力すれば聖人になれるのだ)という倫理主義に裏打ちされたまことの儒者というべきひとたちである。
しかしながら、歴史を顧るに、
漢亡而宋弱。
漢は亡び、宋は弱し。
後漢は名士たちが出てきた後ですぐに滅んでしまった。宋は北宋・南宋を通じて遼や金、元などに軍事的におびやかされ、弱腰外交に徹したのである。
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「はあ。そんなもんですか」
と問うに、巣林散人曰く、
「そうなんじゃ。まことに
剥牀之禍、烈矣。
牀を剥ぐの禍いは烈なるかな。
「ベッドを削りとる」ことの災禍は、ほんとうに激しいわざわいをもたらすのである」
「はあ・・・」
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―――「剥牀の禍」ってなんですか?
では説明しよう。
「易」の「剥」の卦(○=陽、●=陰として、下から●●●●●○と並ぶ卦。惰弱・卑劣の陰が下からどんどん世の中の明るい要素を剥ぎ取って、あと一陽しか残されていない状態に象る)の第一爻(●の部分。第一爻が陰の場合、この爻のことを「初六」という。)の爻辞(占ってこの爻が出たときの占いの言葉)に、
初六、剥牀以足。蔑貞吉。 象曰、剥牀以足、以滅下也。
初六は、牀を剥ぐに足を以てす。貞(ただ)しき蔑(な)きに吉なり。象に曰く、「牀を剥ぐに足を以てす」とは以て下を滅するなり。
とあります。
この爻の(出たときの)状況は、ベッドを削り取るに当たってベッドの脚が削られた状態である。正しく清い態度をとらない方がいい目を見る。つまり、正しく清いひとに悪しきことが起こる状況である。
「象伝」という注釈書によれば、
「ベッドを削り取るに当たってベッドの脚が削られた状態」というのは、下の方からヤラれていくことをいうのじゃ。
ということである。
―――「なあるほど!」
とすぐにわかるひとはいいのですが、すぐにはわからないひとのために、宋代以降、おそらく「易」を読む読書人が一度は目を通さざるを得なかったと思われる(なぜなら科挙の重要参考書だったからです)北宋の程伊川の「伊川易伝」を開き、該当部分の解説を読んでみます。
・・・下から上に向かって陰が陽を削り取って行くようす(第一爻、第二爻)を「ベッド」で喩えている。「ベッド」とは自分の居場所で、そこから段々と削り取られて、やがて自分の体も削られるに至る(第四爻、第五爻では体が削られる)のである。
「ベッドを削り取るに当たって脚から削られる」というのは、剥ぎ取るということが下位から始まるのだということである。陰は下位から上ってきて、だんだん正しく清らかな道を消し去って行き、悪しき世の中に変えていくのである。「蔑」とは「无(無)」のことで、正しい道が無くなっていくということである。陰が陽を削り取り、柔弱は剛健を変化させ、邪悪が正義を侵し、
小人消君子、其凶可知。
小人、君子を消す、その凶知るべし。
くずのようなやつらが立派なひとたちを消していくのだ。どんなにまずい状態か、分かるであろう。
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すなわち、「剥牀の禍」とは、くずのような「小人」が立派な「君子」を下から滅ぼしていくこと、です。
漢の終わり、宋の時代、いずれも立派な君子はたくさんいた。しかし、それでも小人に滅ぼされて、国は亡び、あるいは屈辱の弱腰外交を取らねばならなかったのである。
「これでわかるじゃろう」
と巣林散人は言うた、
多生君子不如少生小人。
君子を生ずるを多くするは、小人を生ずることを少なくするにしかざるなり。
立派なひとをたくさん育てるより、くずのようなやつをできるだけ少なくする方が、ずっとよろしいのだ。
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清・龔巣林「巣林筆談」巻二より。
しかし現在、これだけ多くなってしまってはもう手の打ちようがありませんけどねー。
ちなみに今日は現代史家としてこの目で見ておくべく「行政刷新会議」を観に行ってみました。感想は・・・う〜ん、剥牀の禍?。