まあそうカッカしないで以下のお話を読んでみましょう。↓
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唐の高宗のころ太学生となり、その後用兵家として栄達した魏元忠がまだ仕官せずにいたころ、家貧しく、読書のほか自ら耕作などの労働に従事して暮らしていた。その生活には妻も無く子も無い。そこで、飯炊きをはじめ身の回りの世話をしてもらう必要があろうということで、はじめ、近所の老婆を雇った。
老婆が飯炊きのかまどの火をつけて表で用事をしに出た後、飯を炊いた火に焚き木を継ぎ足していないことを思い出した。
「いけない、火が消えてしまっているかもしれんわい」
と慌てて厨房に駈け入ると、かまどの前には、
有老猿為看火。
老猿有りて看火を為す。
老いた猿が火が消えないように番をしていた。
というのである。
猿は老婆が戻ってきたのを見ると、にこりと(ひとのように)笑い、かまどの前を老婆に譲って窓から出て行った。
「ぎゃああああ」
老婆は驚き、書斎にいた魏元忠にことの次第を告げると、魏はぼんやりした顔をして答えて曰く、
猿聞我闕僕、為執爨耳。
猿、我が僕を闕するを聞き、ために爨(サン)を執るのみ。
それは・・・猿がわたしの世話をする男衆がひとりもいないと聴きつけて、飯炊きをしに来てくれただけでしょう。
老婆は気味が悪くなったようでひまを申し出た。
「はあ、そうですか」
こうして老婆は次の日から来なくなったのである。
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そこで今度は近所の子どもを雇った。
その子が庭で用事をしていると、書斎から魏元忠が
「小僧さん、小僧さんはおるかね」(原文「蒼頭」)と呼ぶ声が聞こえた。
「おいらを呼んでいるのでちょうかね」
と思いながらも用事にかまけて返事しないでいると、どこからともなく出てきた小犬が、
代呼之。
代わりてこれを呼ぶ。
魏の代わりに小僧に吠えつけて魏のもとに行かせたのだった。
「しかたありまちぇんねえ」
と小犬に引っ張られて書斎に行くと、魏は小僧に届けるべき手紙をことづてるとともに、犬の方を見て、
「こいつは近所の家の子犬だが、
孝順狗也。
孝順なる狗なり。
ほんとうに親孝行で素直なイヌなんだよ。
と言い、小僧に友だちになるように命じたのだった。
このことがあってから、小僧は、
―――このだんなはタダモノではありまちぇんね。
と認識したのである。
ある晩、魏が小僧と飯を食っていると、
有群鼠拱於前。
群鼠ありて前に拱す。
ぞろぞろとネズミの群れが出てきて、魏の前で手を胸の前で合わせる拱手礼をとった。
魏はネズミたちを見て、
汝輩飢、求食於我乎。
汝輩飢えて我に食を求むるか。
おまえたち、ハラが減ってわたしに食べ物を求めに来たのかね。
ネズミどもが頷くように見えたのであろう、魏は「わかった、わかった」と言い、おひつの中のご飯を彼らの前に置いてやった。
―――ああ、おいらのお代わりが・・・。
小僧はたいへん悲しい思いでそれを見ていたという。
小僧はあるとき届け物に隣町まで遣わされた。
帰ってきたころはもう真っ暗になっていた。
用事先で貸してもらった灯りを手に村に入ってくると、村の道の真ん中に誰かが座っている。
―――こんな夜中にいったい・・・
と手にしていた灯りを向けてみると、魏元忠であった。
「だんなさま・・・。変なひとだとは思っていまちたが、こんなところで何をちているのでちゅか?」
と問うと、
「ああ、ちょうど灯りが欲しかったところだ。暗くて家に戻れなくて困っておったのですよ」
と言うて、事情を話し始めた。
その話によると、
「日がとっぷりと暮れたころ、空から突然華やかにさんざめく笑い声が聞こえはじめ、次の瞬間、わたしの書斎に、数人の若い女性が入りこんできたんです。わたしが
―――おまえたちはまともな人ではない。おそらく妖かしの者であろう。
と問うたところ、女どもはにんまりと笑って頷く。
「ああ、そうですか、妖かしさんですか」
わたしは以前から妖かしの者が本当にニンゲンを動かすことができるかどうか知りたいと思っていたので、
汝能徙我於堂下乎。
汝、よく我を堂下に徙(うつ)すか。
「おまえさんたち、わたしを部屋の外まで連れて行くことができますかな。」
と訊いてみた。
しばらくどうしようかと顔を見合わせて迷っていたようですが、
婦人竟舁堂下。
婦人、ついに堂下に舁(かつ)ぐ。
おんなたちは、最終的にはわたしを担ぎ上げて書斎の外の庭に下してくれました。
「なるほど。よくわかりました。では、
可復徙堂中乎。
また堂中に徙すこと可なるか。
また書斎に戻りたいのですが、できますかな」
群婦舁旧所。
群婦、旧所に舁ぐ。
おんなどもはもとのところまで戻してくれたのであった。
そこで、わたしは、今度はどれぐらい遠くまで運べるものだろうか知りたいと思い、
能徙我於街市乎。
よく我を街市に徙すか。
「わたしを隣街の市場まで連れて行くことはできますかな」
と問うてみた。
すると、女たちはここまでわしを連れてきてくれたのだが、
再拝而去。曰、此寛厚長者可同常人玩之哉。
再拝して去る。曰く「これ、寛厚の長者、常人と同じくこれを玩(もてあ)そぶこと可ならんや」と。
おんなたち同志で相談し、
「このひとは心が幅広く縦にも厚い立派なお方じゃ。普通のひとだと思ってからかおうと思うたのが間違いだったのじゃ」
と言いあって、わたしをここに置いて、二回づつ別れの拝礼をして帰って行ってしまったのです。
「こんなところに放り出されては、暗くて家まで帰れませんよ」
と文句を言ってみましたところ、
「間もなくお連れさまがまいりますから」
と女たちは答えたのでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そこで、誰か灯りを持つ者が通るのを闇の中で待っていたのだという。
さてさて。
見怪不怪、其怪自敗。
怪を見て怪しまざれば、それ怪は自ら敗る。
あやしのことを見てもあやしのこととしなければ、あやしのことはおのずとほころぶ。
と言い習わすが、魏元忠の態度こそその言葉どおりであったといえよう。
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清のひと退庵・梁章鉅の「浪跡叢談」続談巻八より。以下、この話は「見異記」というもう佚した本に出てくる、とか、この語は唐代にできた言葉だとか、いろいろ考証してくれていますが、以下略。実際は戴君孚の「廣異記」に出ているはずです。
梁退庵(1775〜1849)は福建のひとなり。嘉慶壬戌(1802)の進士、荊州知府、江蘇巡撫などを経て両江総督に達したが、道光壬寅(1842)に病を得て退官し、その後家郷にあって著作に従事した。ちなみに彼と親しく、問題意識も考え方も近かった林則徐が指導したアヘン戦争の際、林の行動を支持して上海まで自ら兵を率い、英軍に対する防衛線を構築した愛国者でもある。ちなみにこの防塁は彼の退官後、後任の両江総督・牛鑑が逃走したため、たやすく陥落したそうです。
・・・というように、すごく偉くなったひとですが、このHPではこれまで「楹聯叢話」で気さくに何度か登場していただいております。