平成22年10月27日(水) 目次へ 前回に戻る
ああ、ベイスターズはどうなるのか。
如何に滅び行くチームとはいえ村田や内川は大丈夫でしょうけど、大邪異暗や大ハンチソなどにたいへんな御奉公をした投手陣などはせめて命ぐらいは助けてもらってもいいと思うのですが・・・。
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石田三成の男子のひとりが幼児より妙心寺・寿性院の弟子となり出家しておったという。
関が原合戦の後、妙心寺より家康公がもとへ、
既に幼年により釈徒にも成りてあることなれば、赦し給はれ。
幼いころから坊主になっておらりますのじゃ、現世とは関係ない人生を送っておりますよって、なんとかいのちだけは救うてやっておくんなはれ。
と請願があった。
「さて、どうすべきものかな」
と家康公は腹心の本多正信に下問するに、
夫(それ)は早く御赦しあるべし、三成の当家へ対し奉りてはよき奉公せしものなれば、其子の坊主一人や二人助け給はるとも、何の障はりかあらん。
それは早いとこ赦免してやりなさるとよろしかろう。三成どのは徳川家にたいへんよく尽くしてくれたのですから、その子の坊主の一人や二人、命を助けてやっても何も困りません。
家康公、それはどういうことぞと問われるに正信答えて曰く、
さん候。
「そうでございますなあ。
このたび三成が迷妄の心を起こしてあのようなこと(←家康と戦うたことを指す)を企ててくれなければ、あのような勝利もできず、御当家が天下に号令する世にもならなかったのでございます。
左すれば、治部(じぶ)は当家への大忠と存ずる。
ということは、治部少輔(三成どのの官名)どのは、わが徳川家にすごい忠義を尽くしてくれたものと思いますズラ。」
と言いましたので、家康公、莞爾(にっこり)として、
をかしくも言へば言はるるもの。
うまいこと言おうと思えば言えるものズラ。
というて、その僧に赦免を給わったのであった。
この三成の息子は、後に岡部美濃守宣勝が昵懇となりその生活の面倒をみていたが、和泉・岸和田に住して平穏に命終わったということである。
この一事を見ても、正信の識量まことに広大、
繁実曰、宜雖無陥城擒将之功、以正信為功臣第一。
繁実曰く、むべなり、城を陥れ将を擒りこにするの功無しといえども、正信を以て功臣第一と為すのこと。
わたくし岡谷繁実が(明治二年に)思いますことには、城を落としたり敵将を捕らえたりといった功績が無くとも、本多正信こそ徳川家康公の功臣第一であったと評価するのは、適切というべきであろう。
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と「名将言行録」(巻52)に書いてありました。史実かどうかは知りません。(ちなみに中世口語には詳しくないので、関西弁、三河弁の考証については識者の叱正を俟つ。)
「名将言行録」はたいへん人気のある書物です。先日、あるところから頼まれて講釈をしに行きましたおり、「やはり本多佐渡(正信)こそ智慧者と申すべきでござろう」と云うてこの話をしたところ、
―――シナ文のみならず「名将言行録」もケンキュウしておられるんですか?
と問われたので、
―――は? みなさん、「名将言行録」ケンキュウしてないんですか?
と逆に問うてみたら、みな蒼ざめた顔をしながら、
―――わ、わしはしておりますが・・・。
―――ふ、普通はしておりますよね・・・。
―――ひ、ひひひ、もちろん・・・。
とおっしゃっておられたものです。みなさんももちろん一家に一冊ぐらいはお持ちですよね?
ただし「名将言行録」は重大な史実、すなわち
「徳川家康は二人いた! 関が原以降の家康は影武者・世良二郎三郎なり!」
という叩いても転がしても揺るぎ無い真実を無視して「家康一人説」を採用しているところが弱いところですが、これぐらいの捏造はチュウゴクの正史に比べれば大したことない・・・カモ。
それにしてもベイスタどうなるのか。明日はドラフト当日だというのに・・・。