さて。ああイヤだ、イヤな世の中。まだ休日まで二日もあるし、先のことはまったくわかりません。ので、過去からの宿題を果たすことにして、今日は5月31日の続きをお話しいたします。
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朱方旦が漢陽に戻ってから数年、癸丑の歳(1673)のこと、雲南であの忌まわしい兵乱が起こったのでございます。
冬十一月、雲南に封ぜられていた平西王・呉三桂は雲南巡撫・朱国治を殺して叛乱を起こしたのです。翌年にはこれに靖南王・耿精忠らが合流し、約十年にも及ぶ清初最大の内乱である「三藩の乱」が始まったのでございました。
皇帝はその報を受けて、朱方旦のことを心配した。
一つには方旦が乱軍に巻き込まれて害されんことを憂い、今一つには方旦が漢族である呉三桂らに与し、教団を率いて反乱軍に投じるならば、教団の勢力もさることながら、方旦の予言の能力が軍事的にどれほどの脅威になるか図りがたいことを憂えたのである。
そこで、使いを立てて方旦を都に召すこととした。
方旦は使いの者が至ったときには既に身の回りの整理を終えており、
「まことの天子のお呼びである。どうしてすぐに出発しないことがあろうか」
と言うて、即座に出発したのであった。
都に至ると皇帝に拝謁し、頭を床に打ちつけて曰く、
此数百万人民之劫、致朝廷宵旰、然無能為也。二三春秋、当有定奪。
これ数百万人民の劫、朝廷に宵旰(しょうかん)を致す、然れどもよく為す無きなり。二三春秋、まさに定奪あるべし。
「今回の叛乱は数百万人の人民たちの溜めてきた因業がその破壊的な作用を及ぼしているものでございます。お上におかれてはたいへんなご苦労をおかけ申し上げて申し訳ございませぬが、しかし、何の恐れもございません。二三年のうちにほぼ収まることとなりましょう」
人民たちの因業のせいで陛下を苦労させることになり申し訳ない、と、(漢民族の)人民どもに成り代わって、頭を下げたのである。
「劫」は仏教用語の「カルパ」で「一つの時代」あるいはその終わりをいう。人民どもの積み重ねた業(カルマ)がたまりにたまって、一つの時代の終わりには、世界が破壊されるような大災難が来るというのである。
「宵旰」(しょう・かん)は「宵衣・旰食」の略で、皇帝が勤勉に働くことをいう。
唐書(劉賁伝)に、天子の苦労を表現して
任賢タ氏A宵衣旰食。
賢に任じて獅、きをタ(おそ)れ、宵に衣し旰に食す。
賢者に政治を任せ(通常のことは委任し)た上で、危急の災害が起こることを心配し、夜明け前(「宵」)には起き出して着物を着、日暮れの後(「旰」)になってようやくメシを食う。
と言っておりますのに基づく言葉。
朱方旦はさらに続けて、
山人受恩本朝、決不敢負。
山人、恩を本朝に受く、決してあえて負(そむ)かず。
「山がつじじいのこのわたくし、陛下のご恩をいただいております。どうして叛乱を起こすやつらに与するようなことがありましょうや。」
と言い切ったので、皇帝陛下はたいへん喜ばれ、北京市内に邸宅を与えて住まわせることとした。
さて―――――
朱方旦を罰しようとして恨みを抱かれているのではないかと心配し、心臓の病を得て北京の自宅で療養しておりました董国興でございますが、その家のさびれた門に、ある日客人が現われた。
門番が名刺(当時のは板で作る)を見て、驚いて主人に告げる。
漢陽道人・朱方旦
そのひとの来訪であった。
「とにかく失礼の無いように致せ」
と上席に導かせ、董は病床から起き出して弟子の礼をとって挨拶し、自らの不明と非道を詫びた。
朱方旦は上席から飛び降りて、
「おお、董巡撫どの、何をおっしゃられるか」
とその手を執りて言うに、
公為国大臣、宜当持正。某豈敢怨。
公は国の大臣なり、よろしく正を持すべし。某あにあえて怨まんや。
「閣下は(八旗出身の)国の重臣でございますぞ。正義を守るのがその職務でござる。どうしてやつがれが怨みを持つようなことがございましょうか」
と。
そして、
「やつがれが今日まいりましたのは以前のことをどうこうというためではござりませぬ。聞けば閣下は病で伏せておられるとのこと、今のような国家の大事に閣下のような有用な方が伏しておられるのは国家にとっての損失。そこで、閣下の病を治療にまいったのでございます」
と言いまして、近侍の者に命じて無根水(地上に触れたことの無い水、すなわち雨水である)を椀に一杯持ってこさせると、
以朱筆画符水面。
朱筆を以て符を水面に画く。
朱を含ませた筆で、水面に赤く「符」(神聖な記号)を画いた。
何とも不思議なことに、
字朱不散。
字の朱、散ぜず。
朱で水面に画かれた符号は、水に溶けて散じてしまうことがなかった。
董服之即癒。
董これを服し即ち癒ゆ。
董がこの水を飲むと、たちまち体が軽くなったように感じて、長い病から解放されたのである。
後、董は再び重用されるようになり、三藩の乱の平定にも力を尽くしたのであった。
あるいは朱方旦はこんなことも・・・・・・・
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また続きます。このあと、掌返しが待っているのです。→6月5日へ
「柳南随筆」巻三より。