今晩帰ってくる途中、道端の松がムシに食われて枯れかけているのを見た・・・。
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「高麗史・五行志」に曰く、
毅宗五年八月、海州虫食松。
毅宗五年八月、海州にて虫、松を食う。
毅宗は高麗の第十八代の王で、その五年は1151年に当りますが、秋八月、海州の地でムシが松を食った、という報せが届いた。
その前年からイナゴが発生し、松を食いはじめていたのだが、ここに至ってその数がたいへん増え、ついに朝廷に報告されたのである。
天文を掌る太史が王に奏上していう、
―――「海東古賢記」によれば「浩嶺に松城あり」という。この松は君子を表わします。これに対してムシは小人であります。これに続けて、
蠊食松之時、文虎乱政。松変鵠木之歳、天下白色。
蠊(レン)の松を食らうの時、文虎政を乱さん。松の鵠木(コクボク)に変じるの歳、天下白色ならん。
飛びムシが松を食うときが来たならば、模様あるトラが国政を乱すであろう。松がしら木に変じる歳があったなら、天が下は白色の(喪に服す)年になるであろう。
と記されておりますぞ!
・・・・具体的にはよくわかりませんが、要するにこれは天下の政治の乱れる予兆だというのである。
毅宗はその初年には賢臣・鄭襲明の補佐を受けておりましたが、この直前、宦官の鄭誠の讒言により襲明を追放して、代わりに阿諛の名人であった金存中を大臣に就けたのでありました。政権からの虐待を受けた鄭襲明は服毒自殺し、これ以降、王は奢侈・逸楽の生活に耽るようになったのでございます。
まさにこの事件は、毅宗の政治が乱れ始めたことへの天からの警告だったのでございましょう。
・・・・また、毅宗十八年十一月には大いに霧がたちこめ、白昼もまったく視界が利かざること数日、太史また王に奏上して曰く、
霧是衆邪之気。
霧はこれ衆邪の気なり。
―――霧は、もろもろの邪悪の集まった気象でござりまするぞ。
それが連日散じない、というのは、国家の混乱の象徴である、と訴えたのであった。
王は風水の学を信じること深く、その在位中に二十回も王宮を遷すなど土木のことを好み、ために国家の府庫を空にしてしまった、とも批判されます。上記のような前兆もあり、その二十四年(1170年)、ついに叛乱した大将軍・鄭仲夫に捕らえられ、退位せしめられたのであった。
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松がムシに食われていても、まだ24−5=19年は持つ、ということか。ああよかった。この国は明日にでも滅ぶかと思っていたのですが杞憂のようですなあ。
韓流の時代だそうですから、時代遅れのわたくしも時おりは朝鮮漢文でも読んでみようと思いまして、ちょっと読んでみました。まだ平日なので今日はここまでにします。この時期は金の最盛期でもあり、高麗の為政者もいろいろ難しかったのだと同情しますね。