平成22年5月31日(月) 目次へ 前回に戻る
あーあ、また今週がはじまってしまったなあ・・・。イヤになりますね。ぐすん。
さて、今日は28日の続きを話させていただきます。
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朱方旦が斬罪に処せられん、としたまさにそのときに、刑場の北京・西市にやってきましたのは、皇帝のお使いの高級宦官であられました。
数十人の供の者を連れ、馬上のまま見物の人民どもを押しのけて刑場に入ってまいりましたので、人民どもがわいわいと騒いだ。
「ええーい、静まれい!」
高級宦官の威厳ある叱声に刑場は水を打ったように静かになった。
高級宦官、執行官に言うて曰く、
「皇帝より恩赦が出た。朱方旦は斬罪を赦されたのじゃ。縄を解け!」
執行官は青竜刀を捨て、朱方旦の縄を解いた。
人民どもはこれを見て、
「おお、さすが皇帝さまじゃ、無実の罪で罰せられようとしていた朱道士をお救いになられたのじゃ」
「よかった、よかった、それにしても憎たらしいのはあの法官どもよ」
「道士さまを罪に陥れようとしていたとはなあ」
とてのひらがえしもすさまじく、大喝采である。
と、そこへ、今度は、
「ええーいい、静まれい!!」
と今度は高級宦官の上司の大宦官が百人のお供を連れてやってきた。
大宦官は馬車から飛び降り、
「朱道士はどちらにおわすぞ?」
と今度は朱方旦を敬語で呼んだ。
「朱方旦はわしでございますがのう」
と道士が縄を解かれて、腕を回したりくびをごきごきしたりしながら一歩前に進みでますと、
「おお、道士どの、皇帝におかれては朱道士をお召しであられる! ご同道願いますぞ!」
と供の者にかつがせてきた輿を指差した。
朱方旦が輿に乗せられ供の者どもの肩の高さに担ぎ上げられると、人民たちは彼を仰ぎ見て、
「ああ、ありがたや、道士さま!」
「ああ、ありがたや、皇帝さま!」
と伏し拝み、「皇帝陛下万歳」の声の沸き起こる中、朱方旦は宮廷に招かれて行ったのであった。
・・・・・・・・・・・・・ばかみたい・・・かも知れませんが、「皇帝」を「世論」、「宦官」を「テレビ」と読み替えてみればゲンダイでも・・・・・・
さて、皇帝は朱方旦をじきじきに話をされ、その言葉がすべて的中するのに驚かれ、
命館於内城。
命じて内城に館せしむ。
宮廷の中に暮らさせた。
日夜にお召しになって面会されるほどのご寵愛である。また、
諸王公貴戚日候于門、問禍福、其応如響。
諸王公・貴戚、日に門に候(うかが)い、禍福を問い、その応は響くが如し。
王公や貴族、外戚などが続々と毎日毎日、門をくぐって占いを聴きに来る。質問に対してはこだまのように即座に答えるのであった。
そのうち朱は貴族たちとの付き合いに疲れを覚えるようになり、皇帝に漢陽の実家に帰りたいと申し出た。
皇帝はこれをお許しになり、たいへんな量の餞別をお与えになった。王公・貴族の類もそれぞれの富に応じて莫大な贈り物をしたから、朱方旦が漢陽に行くのに仕立てた舟は、宝物の重みで大きく沈み込んだほどであったという。
帰舟所載不貲、悉用以営祠宇、不以自潤。
帰舟に載するところ貲(し)せず、ことごとく用いて祠宇を営み、以て自潤せず。
この帰りの船に載せた宝物は惜しむことなく、すべてを使って道教のほこらを造ったり修繕したりするのに使い、自分の財産として遺すものは一切無かった。
ので、これがまた評判になった。方旦は漢陽に戻り、もとの信者から篤い信仰を得るとともに、皇帝の寵愛あつい大道士として、広く湖州一体に信者を擁するようになったのである。
一方、もともと朱方旦の動向を患い、捕らえて北京に送致した董国興は、都で方旦が寵愛を受けているというのを聞いて、自らが罰せられるのではないかと心配し、ついに心臓の病を起こして休職することとなって、方旦と行き違いに北京の自宅に隠棲したのだった。(ちなみに董国興は漢人八旗の出身であるため、職を退いて実家に帰ることを「帰郷」といわずに「帰旗」といいます。ご参考までに)
このようにして数年を経、朱方旦の教団の権勢は地方の政治を傾けるほどにまでなったのである。
ところが、そんなとき、あの大事件が・・・!
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ということで、この話はまだ終わりません。「柳南随筆」巻三より。続きはこちら
ところで、明日あたり政治的には大事件が起こる? マスコミのてのひら返しもすさまじく、笑話戦前に煽りまくって戦後には検閲があったから自由に言えなかったんです、ああおそろしかったですどうたらと言うたという前例を彷彿とさせますが、気づいても言ってはいけませんので、言いません。まだまだこれからもやるんでしょうしね。