平成22年5月11日(火) 目次へ 前回に戻る
あるいはこんなやつだったのかも・・・
元の至正己亥年(1359)秋八月のことである。
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四川の平江城内に蛾眉橋という橋があり、そのたもとには葉家の門構えが見える。
その門を入った軒下には、水の枯れた古い井戸があって、葉家がこの居を買う以前にはもう枯れていたということであるが、そこそこの深さがあって、底がどうなっているか、外からは見えなかった。
――――にゃあん。
偶所畜猫墜入。
たまたま畜(やしな)うところの猫、墜ち入る。
たまたま、飼っていたネコがその井戸の中に入って行ってしまった。
・・・それがすべての不幸の始まりでありました。
底の方で「ふんにゃあああ!!!!」という叫びが聞こえたかと思うと、それきりネコは上がってこない。
ちょうど隣の家で職人を頼んで井戸を浚えていたところであったので、葉家の主人は、銭ひとさしを謝礼に、その職人の父子に頼んでネコを取り出してもらうことにした。
「ようがすよ。おい、おめえ、見てきな」
「あいでがす」
子既入井、久不出。
子既に井に入り、久しく出でず。
子どもの方の職人が井戸に入って行った。・・・しかし、なかなか出てこない。
「おい、一体どうしたのだ?」
と父の方が呼びかけても返事も無い。
父継入視之、亦不出。
父継いで入りてこれを視るに、また出でず。
父の方が続いて井戸に入って行った。・・・が、やはり出てこなくなってしまった。
「あわわ、な、なにが起こっているのだ・・・」
葉家の主人は腰に縄を結びつけ、家人たちに縄の一端を持たせて何かあったらすぐに引っ張り上げるよう命じて井戸に下りて行った・・・。
―――うあああああ! たすけてくれー!
突如井戸の底から叫び声が上がったので、家人たちは一気に縄を引き上げた。
引き出されてきた主人は、
下体已僵木如屍、気息奄奄。
下体すでに僵木となりて屍の如く、気息奄々たり。
下半身はすでに死後硬直を起こした死体のように、枯木みたいにかたまってしまい、呼吸も絶え絶えとなっていた。
町中のひとびとが大騒ぎして医者を呼んだり介抱したりで何とか一命はとりとめたが、「井戸の底で何があったか?」と問うても、首を横に振り涙を流すばかりで、言葉を発することもできなくなってしまっていた。
町のひとびとが役所に届け出たので、役所の方では武官が一分隊を率いて井戸を検査しに来た。
武官は井戸を覗きこむと、部下に命じて、
令籠火下燭。
籠火をして下燭せしむ。
松明を入れたカゴに縄をつけて井戸の底に降ろさせ、中を照らさせた。
その灯りの中に、
彷彿見若有旁空者。向之死人、一横臥地上、一斜倚不倒。
彷彿として旁(かたわ)らに空しきものあるがごとし。これに向かいて死人、一は地上の横臥し、一は斜めに倚(よ)りて倒れざるあり。
ぼんやりと見えたのは・・・井戸の底の片側に横穴が開いているようである。そして、それに向かって、二体の死体がある。一体は底に倒れており、もう一体は井戸の壁に寄りかかって斜めになっている(←かたまっているのである)のである。
武官は今度は縄の先にカギをつけたものを降ろさせて、斜めになっている方の死体の髪に引っ掛けさせ、これを引き上げさせた。
地上に引き上げられたその死体を見るに、
偏身無它恙。止紫黒耳。
偏身、它恙(たきょう)無し。ただ紫黒なるのみ。
体中に特におかしなところは無かった。ただ、全身が黒くなってしまっているだけであった。
町のひとびとは
「おそろしい。これは地下の大蛇に咬まれたのではないか」
と推測し、資金を出しあって井戸を埋め戻してしまったのであった。
ああ、おそろしいです。
彼らは地下で一体何を見たのでしょうか。職人二人が横穴らしきものに「向かって」死んでいたところなど、すごいコワいものを見たのではないかと思われてコワくてしかたがありません。
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ずうっとコワくてしかたがなかったのですが、――――
あるとき唐・段成式の「酉陽雑俎」を読んでおったところ、
凡冢井間気、秋夏多殺人。先以鶏毛投之、直下無毒。回舞而下者、不可犯。当以泔数斗澆之、方可入矣。
およそ冢井の間の気、秋夏に多く人を殺す。先に鶏毛を以てこれに投じ、直下すれば毒無し。回舞して下るものは犯すべからず。まさに泔(カン)数斗を以てこれに澆(そそ)ぎて、のちに入るべきなり。
「泔」(カン、ハン)は「コメのとぎ汁」のこと。
墓穴とか井戸に溜まった空気は、夏から秋にかけての季節にはひとを中毒せしめて死なせてしまうことがある。そういう場所に入るときには、まずニワトリの毛を落としてみることだ。まっすぐ落ちていくなら溜まった空気には毒はない。ぐるぐると回転しながら落ちて行くようであったら、毒気が溜まっているので入ってはいけないのである。こんなときは、コメのとぎ汁を数斗ほど注ぎこんで、(毒を中和してから)入るようにせねばならん。
というくだりを見つけて、平江城の事件もこの毒気だったのではないか、と思い至り、ようやくほっとしたところであった。
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以上、元・陶宗儀「南村輟耕録」巻十一より。本当にそうなのでしょうか、という疑問は残るが、もう650年も前のことだし、本人が納得できたのならそれでよいのであろう。