平成22年5月12日(水) 目次へ 前回に戻る
「一般にですな・・・」
と巣林散人は言いました。
神鬼茫昧。
神鬼茫昧たり。
「心霊の問題はぼんやりしてよくわからないことである。
だからそんなものは無いのじゃ、と言ってしまえれば楽なのじゃが・・・」
散人は首を振りながら続けた。
「しかしながら、
所親見者亦有一事。
親しく見るところのもの、また一事あり。
「わし自身がこの目で見た事件が一つあるのじゃ。
ですから、一概にそんなものは無い、とは言い切れぬ」
―――へー。それはそれは・・・散人が「この目で見た事件」とは一体どのようなものでございましたのか。
「うむ・・・、あれはたしか・・・」
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乙未年(康煕五十四年、1715)の元旦のことであった。
妹の乳母はこのころ三十ぐらいであったろうか、普段はしとやかなひとであったが、このひとが突然、何かにとりつかれたらしく、背中を丸めて老人のように振る舞い始めた。
そして、
将鬚唱曲。
鬚を将(ひ)いて曲を唱う。
ヒゲをひねり(あげるふりをし)ながら、今様歌などうなりはじめたのである。
日ごろ妹の教育にも厳格な堅物の乳母が、どこでそんな歌を覚えたのであろうかというような下品な歌であった。
それ以上特別な問題があったわけではないが、この乳母の居場所からはるかに離れた厨房のあたりで、家人たちが「どうしたものか」と相談していたときのことである。
わしも何かたいへんなことが起こっているらしいという気分を感じながらそこにいたのであったが、王という下僕が独り言のように、
用素。
素を用いん。
「・・・白糸でも使ってみますかあ」
と小さな声で呟いた瞬間のことである。
王奴!(この王めが!)
と数里に響き渡るような大声で、屋敷のはるか向こう側から乳母の怒鳴り声が聞こえ、ほんとうに次の瞬間には、乳母は背中を丸めた老人の姿のまま、空中をすべるようにものすごい速度で厨房までやってきて、すさまじい目で王を睨み据え、耳を聾するごとき大声にて
「×××××××−ッ!」
と怒鳴りつけたのであった。
その場にいた者はみな、息を呑んだ。
と、その次に呼吸をしたときには、もう乳母の姿はその場に無く、廊の向こうの方に、今度もすごい速度ですべるように後退していく姿(こちらを向いたままなのである)が見えただけであった。
「い、いまのは・・・」
わしらは顔を見合わせて茫然としていたが、怒鳴られた当人の王はその場にへたりこんで気を失っていたのであった。
良久、嫗醒、詢之、茫如也。
やや久しくして嫗醒め、これに詢(はか)るも茫如たり。
しばらくすると乳母はころりと目が覚めたように元に戻ってしまった。「一体なにごとだったのか」と訊ねてみても、乳母も首をひねるばかりであったのである。
予時年十二歳、諮コ呵叱、終亦不較。
予時に年十二歳、諮コ呵叱、ついにまた較せず。
わしはその時、ちょうど数えで十二歳になったばかり。乳母が王を怒鳴りつけた言葉の内容はとうとうはっきりわからなかった。
その場にいたひとたちにも聞き取れなかったということである。
もう四十年も前のことであるが、一体、乳母に憑りついた神霊はどういうことを言いたかったのであろうか、いまだに気になってしかたがないのである。
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清・龔煒「巣林筆談」続篇巻上より。
気になりますね。どうせ近世チュウゴク語ですから何て言ったのかわたしにはわかりませんでしょうけど、「ルーピー!」のように耐えられないような悪口だったのでしょう・・・か。