平成22年5月13日(木) 目次へ 前回に戻る
不思議なことじゃにゃあ・・・。
昨日のお話より十数年前のことになりますが・・・。
康煕壬午年(四十一年、1702)七月十五日。
風も無い初秋のうだるような暑さの中、揚州宝応県の域内を流れる運河に二艘の船が並んで浮かんでいた。
・・・午後の日も傾きかけたころ、
忽被暴風飄起。
たちまち暴風の飄として起こるを被る。
突然、激しい疾風が巻き起こり、二艘の船も巻き込まれたのだった。
風がおさまったとき、なんとも不思議なことに、
一送向東岸野田内。
一は東岸の野田の内に送向さる。
一艘は東の岸を越えて田んぼの中まで飛ばされていた。
一送向西氾光湖中。
一は西に氾して光湖の中に送向さる。
もう一艘は西の岸を越えて光湖という池の中に浮んでいた。
並んで浮んでいた二艘の舟の間のわずかな距離で、東と西に吹き分けられたのである。
また、河を離れて少し下ったところにはある一族の住居があった。この一族は、近世江南に典型的な、父系親族が集まって住んで生計を共同にしながら、それぞれの世帯が「房」(部屋)に住み、食事どきや儀式の際には「堂」に集まるという「宗族同堂」の生活をしていたのですが、その日はちょうど法事の日であったので、
一家方祀先。
一家まさに先を祀る。
一族が正堂に集まってご先祖さまを拝んでいたところであった。
長老の声に応じて、大人も子どももともに
下拝畢。
下拝畢(おわ)る。
下座して拝礼する儀が終わった。
「直れ」
と合図があってみな顔をあげようと・・・・・・
そのとき、長老が驚いたように
「あ、あれれれれ?」
と目を瞠る。
みな、長老の視線の先、
起視所居房、風飄雲際、如紙鳶状。
居るところの房を起視するに、風の、雲際に飄(ひる)がえし、紙鳶の状の如し。
普段みながそれぞれ住んでいる部屋の方に目をやると、建屋は風にひるがえって雲のかなたに飛び去っており、そのすがたはまるで「いかのぼり」のようであった。
「いかのぼり 昨日の空のありどころ」(一茶(だったと思うのですが))・・・・「紙鳶」(しえん)は「凧」「いかのぼり」のことです。ちなみに「大言海」によれば、江戸で「たこ」、畿内で「いかのぼり」というよし。わたしには二本のしっぽをぶらさげた様は「イカ」に見えるので「いかのぼり」が元で江戸の「タコ」は洒落てつけた名称なのだろうと思われる。
閑話休題。
一族のもの、みな、ぽかんとしてその様を見つめていたが、ふと視線を堂内に戻すと、
祖先前之香火乃熒熒然。
祖先前の香火すなわち熒熒(けいけい)然たり。
ご先祖さまの位牌の前に供えられたお香と蝋燭は(、そよ風も吹かなかったかのように)あかあかと燃え続けていたものであった。
ご先祖さまをおまつりするため「正堂」に集まっていたおかげで、一族の者の命には別状はなかったのである。家はぶっとんでも、血のつながった一族どうし、みな協力しあって生きていくように、とご先祖さまが教えてくださっているかのようであったという。
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清・劉廷璣「在園雑志」巻四より。不思議なことである。不思議といえば、直接押されもせぬのに転んだひとが、「打ち身」で車椅子で国会議事堂に来て、懲罰動議だとかなんとか。てれびはまたおかしな報道をしているようですが、ネットで動画を確認したらちょっとさすがにこれは通らない・・・・・しかも野党でなくて強行採決した与党の方が被害者だそうだ。はるか遠い国のはるか遠い昔の「国会議事堂放火事件」と構造が同じような・・・、歴史は繰り返される、一度めは悲劇として、二度めは喜劇として、てか。こんなこと書いていると、おいらもそろそろ「友愛」されるかもよ。