平成22年4月12日(月)  目次へ  前回に戻る

こんな感じか・・・?

みなさんは明の太祖(洪武帝。在位1368〜98)が紅巾軍に加わる前、皇覚寺という寺で僧侶をしていた――それも下働きや力仕事に使われる卑賤な坊主であった――ことは先刻ご存知でしょうな。

もしももしも、ご存知ないひとがいたりしますと、大変キケンです。

帝はそのころ「光釈和尚」と名乗っていたから、帝位に就いた後、群臣が上奏文の中などに「光」「釈」「和」「尚」のどれか一文字を使っているのを見ると、

即為譏訕、甚則誅戮、軽亦譴讁。 

即ち譏訕(きせん)せりと為し、甚だしきはすなわち誅戮(ちゅうりく)し、軽きもまた譴讁(けんたく)せり。

すぐに、自分を誹謗しているのだ、と受け取り、重いものは死罪に、軽いものもまた叱責して流罪に処した。

のですから、気をつけねばなりません。

さて、そのような中に、江蘇・常熟出身の施孟微というひとがおった。

施は監察御使にまでなった人物であったが、ある日、皇帝の徳を称賛するために高官たちがめいめい詩を作ったとき、

日出光華照四方。

日出でて光華は四方を照らす。

太陽のごとき帝徳の華麗なる光は、世界の四方のはてまで届くのだあ!

と書いたものだから、この「光」の字が引っかかった。

帝は施孟微に悪意が無いことは理解したので、死罪やら流罪やら論じられた中で、何とか官を辞めさせられて郷里に引っ込むだけで許されたのは幸いなことであった。

この施孟微というひとは、(孟微は字であり)名を顕といい、洪武年間に江蘇の地方試験に首席で通って進士となったのだが、江南でも何年に一人というようなたいへんな大人物といわれたひとである。上記のような事件を起こさなければ位人臣を極めたかも知れぬ。

亡くなって常熟の西山の麓、高道山の近くに葬られたが、その子孫の中に、清に入って雍正年間(1723〜35)に身を持ち崩し、祖先伝来の墓地を成り上がりの一族に売り払ってしまった者があった。

買い取ったひとが

啓土遷棺。

土を啓(ひら)き棺を遷(うつ)す。

墓地から棺を掘り出し、別のところに移す。

ために孟微の墓を発いたところ、

白骨見焉。頭大如斗、両股亦倍常人云。

白骨見(あらわ)れたり。頭大なること斗の如く、両股また常人に倍すと云う。

白い骨が現れたのであった。その頭蓋骨は一斗樽ほどもあり、両大腿部の骨を見るに、これも普通のひとの倍ぐらいの長さがあったというのだ。

このことを聴いただけでもたいへんなひとであったことがわかろうというものである。

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明〜清の一斗は10〜11リットルで、日本の一斗樽(18リットル)の五分の三ぐらいの大きさですが、それでもすごい大きな頭である。すごいひとがいたものですね。

この記録は、清のひと王応奎「柳南随筆」巻六より得た(同書からは実に久しぶりに、昨年の3月13日以来の引用である)。施孟微は筆者の同郷人に当たり、墓地はその在所の近所であるそうな。王応奎は康煕二十二年(1683)の生まれであるから、この墓掘り返し事件は彼の40歳〜50歳ぐらい、社会的地位も分別もある年頃である。よもやウソハッタリを記録するはずもなく、本当のこと(だと信じていたの)であろう。

(参考:22.12.2清・周寿昌「思益堂日札」より「文字

 

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