成化年間(1465〜87)のこと。
呉師禹というひとが年老いて後、呉嶼江のほとりに庵を結び、花を植え書を読んで暮らしていた。
月の夜ともなると、
棹小舟、載酒与漁翁共飲、酣歌唱和。
小舟に棹さして酒を載せ漁翁とともに飲み、酣にして歌い唱和す。
自ら棹をさして小舟に乗り、舟には酒を載せていて、知合いの漁師の舟を探す。お目当ての老漁師を見つけると側に寄って行ってともに酒を飲むのである。酒たけなわとなるとともに声高らかに歌を唱和した。
その歌はいくつも伝わっていたそうだが、今となっては知るひともない。
・・・・・今は嘉靖の時代、今年は辛酉の歳(1561)ですからもう百年もむかしむかしのことだ。
張君寿という若者、彼もまた詩文に志していまだ志を得ず、その年の半ばにふらりと呉嶼江のほとりに流れてきた。
そして呉師禹の伝説を聞き、そのひとのことを懐かしく思うた。漁翁と親しく唱和したというその歌を知りたいとも思うたが、土地のひとびとに尋ねても既に散逸してどこにも伝わらないと聞き、あきらめるよりほかなかった。
いずれにしても彼は旅の身の上、いつまでもこの地に止まるわけにもいかない。
―――秋のもう少し深まる前に、今年は襄陽のあたりまで旅してみようか・・・。
と思いつつ、その年の八月十四日の夜、ひとり呉嶼江の半ばにまで舟を出し、空に月を眺めていると、
見上流扁舟如雀。
上流に扁舟の雀の如きを見る。
上流の方に、スズメのように小さなひらた舟が浮んでいるのが目に入った。
その舟にひとり老翁があって、棹を取りながら朗々と歌を歌っている。その歌詞は聞き取れないのだが、
声沸江水。
声は江水を沸かせり。
その歌声は江の水を湧き立たせるほどに高らかなのだ。
―――なにものであろうか。
張君寿は大声で呼ばわった。
「翁よ、あなたは如何なるひとか。常にある漁人とも見えませぬ」
すると、老翁は歌を止めて・・・
ふと気づくと老翁の舟はいつの間にか君寿の舟のすぐ側まで寄って来ていた。
月の光の下、それを反射する幾千幾万の波の上、ゆらゆらと白い髪と白い鬚の老翁は向こうの舟の上から手招きする。
舟に乗り移れ、と言うようである。
君寿は好奇心にも駆られたのだが、なによりそのときには常日頃の自分とは違っていて何かを考えるということもできず、もうふらふらと半ば夢見るように老翁の手招くままに、
ひょい
とそちらの舟に飛び移った。
老翁は舟を操って、江の中洲に案内する。
はて、このような中洲が昼間あったものか―――
と思ったか思わなかったか、君寿は老翁に促がされて舟を降りた。中洲には小さな庵があって、そこが老翁の住処であるようだ。
その庵は
碧流環繞、図史分列。
碧流環繞し、図史分列す。
みどりの水の流れが周りを取り囲んでおり、画の入った本、入ってない本が無数に分類されて並べられている。
老翁は野菜とタケノコの料理と酒を出してくれた。
酒を進められてほろ酔ううちに、老翁は薄絹の表紙の古びた書冊を取り出してきて、これを卓上に置いた。
標題を見るに
呉師禹詩文集
とあり。
君寿は頷いて手に取ろうとしたが、酔うて手元が覚つかぬ。
「いや、これは・・・、今宵は・・・もう・・・眠りましょう」
そう言うか言わないか・・・・のうちに、君寿はふらふらと椅子から離れてかたわらに用意のあったベッドの上に横になるや、たちまち泥のように眠りこんでしまった。
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睡覚、乃在叢篠中。
睡覚するにすなわち叢篠中にあり。
眠りから覚めたとき、くさむらの中に寝転んでいるのに気づいた。
―――ここは?
頭を振りながら傍らを見ると、
石上詩箋猶存。
石上に詩箋なお存す。
平たい石の上に詩集はまだ置かれていた。
―――そうであった、この詩集を読もうと・・・
君寿が詩集を取ろうと手を伸ばしたところ、
応手灰滅。
手に応じて灰滅せり。
手を触れた瞬間、それは灰のように空中に散じてしまった。
―――ああ。
振り仰ぐかなたには秋の朝空が、既に青々と澄み切っていたという。
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「列朝詩集小伝」閏集・神鬼条より。何が何だったのであろうか。