わしが汽車を降りたのは、ニホン海に面した古い港町Sであった。松尾ばせを、若山牧水、竹久夢二・・・など、名だたる旅の詩人どもが訪れた町である。少々氷雨のごときものが降っていたが、宵の港町を散策していると、倉庫の陰から、
「にゃい」
と呼びかけるものがある。
「なにものじゃ」
振り向くと、そこにいたのは大きなネコである。大きさはわしと同じぐらいあり、二本足で立っている。
「うひゃあ!」
と驚くのはシロウト。
わしのように不思議のモノに目慣れていると、これほどのことでは驚かぬ。
「ほう。これは珍しい。ネコ魔族ではないか」
と声をかけると、そやつは
「にゃははははにゃあ」
と笑い、懐からパイプを取り出すと火を点けた。
マドロス・パイプである。
「む」
わしは今度は驚いた。
「マ、マドロス・パイプを咥えているとは・・・、西ニホン一帯に棲息する通常のネコ魔族はキセルを使うもの。お、おぬしは一体ナニモノじゃ?」
「にゃははははにゃあ」
そやつはまた笑い、
「そこに気づくとはさすがにゃあ。おれたちは北陸から北海道の日本海沿岸にかけての港町に棲息する海ネコ魔族にゃ」
と答えた。
「な、なんと! 通常のネコ魔族がネズミ退治のために北前船に乗り込み、寒冷地適応を遂げたという海ネコ魔か。まだ生きていたとはのう」
「にゃははは。日本海側の古い港町には今でもたいていおれたちがいるもんにゃ」
「ふむ」
わしも落ち着きを取り戻し、ポケットから紙巻たばこ「ドラゴンボイス」を取り出して火を点けた。
ぶおう・・・ぶおう・・・
吸うとドラゴンの声を出すという優れものである。
「ほう、さすがに気の利いたタバコを吸っているにゃ」
「海ネコ魔のお方におほめいただいて光栄でござるぞ。ところでその海ネコ魔のお方が何の御用でこんなところにお見えになられたのだね」
「にゃん」
海ネコ魔はにやりと笑った。
「おまえにゃんを見込んで、頼みたいことがあるのにゃ。これを山ネコ魔の長老に手渡して欲しいのにゃ」
海ネコ魔は銀色に輝くメダルをわしの方に差し出した。表面にはヒゲをピンと立てた立派なネコの肖像が浮き彫りになったメダルだ。
この肖像のネコは、中世の伝説なネコ魔、ネコ魔中納言であろう。
「待て。山ネコ魔長老に、じゃと? そのお方の名は聞いたことがあるが、西日本一帯の内陸部から山中あるいは都市部のどこかにおられると言われ、その行方はヨウとして知れぬと聞く。おぬしは長老が今どこにいるのか、知っているのか?」
「知らにゃい。ただ、おまえにゃんなら何とか探し出せようから、頼んでみよ、というのが、われら海ネコ魔の長老のお達しなのにゃ。そこで、おれはここでおまえにゃんを待っていたのにゃ」
「な、なんと。・・・しかし、わしのようなただのニンゲンにどうして・・・」
「おいおい、おれたちをにゃんにも知らない田舎ネコ魔と思っているかにゃ。おまえにゃんは、ただのニンゲンに見せかけているが、本当の正体は にゃろう。みんな知っているのにゃ」
これはさすがのわしも面食らった。ニンゲンどもには知られているはずのないわしの正体をこいつらは知っているのか。
「そこまで調べているのか。では致し方ない、ネコ魔長老への届け物、確かに預かろう」
「かたじけにゃい」
わしの手のひらに銀のメダルを押し込むと、そいつは倉庫の陰の暗がりに消えて行った・・・・・・・。
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二日ほどさぼっていたのはちょっとニホン海側の港町Sに「裏」の調べごとに出かけていたからです。寒かった。いろいろ勉強になった。
とりあえず明日からはまた「おもて」の暮らしをせねばならぬ。
たいへん有名な言葉でございますが、
良農不為水旱不耕、 良農は水旱のためにとて耕さずんばあらず、
良賈不為折閲不市、 良賈は折閲のためとて市せずんばあらず、
士君子不為貧窮怠乎道。 士君子は貧窮のためとて道に怠らざるなり。
良き農業者は水害が起こったり旱害が起こったとしても耕作を続けるものじゃ。
良き商人は騙し取られたり損をしたりしても商売を続けるものじゃ。
自由民の資格を持つ者は貧しかったり困窮したりしても正しい道を行うことを怠りはしないものじゃ。
と申しまして(「荀子・修身篇第二」より)、わしも孜々として道に進んでいるわけですが、「おもて」の暮らしの方はどんどん怠っていく。