今日は暖かかったです。春一番的な天気でした。
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宋のころ、あるひとの家に古い鏡があった。
この鏡、
能照二百里。
よく二百里を照らす。
二百里先まで照らすことができる。
というのである。この「里」はいわゆるシナ里ですから、一里=550メートルで計算して110000メートル。随分先まで照らすことができる。
そのひと、この鏡を時の宰相である呂蒙正さまはに献上してその知遇を得ようと、呂さまの弟に話を持ちかけた。
弟からそのことを聞いた呂蒙正さまは首をひねり、自分の顔をつるりと撫で回して、
吾面不過碟子大、安用照二百里。
吾が面は碟子(せつし)の大に過ぎず、いずくんぞ二百里を照らすを用いんや。
「碟」(セツ)は皮をなめすことですが、「碟子」(せっし)と熟すると、ゲンダイチュウゴク語でも使うそうですが、当時の口語表現で「お皿」のこと。
わしの顔はお皿ほども無いのに、どうして二百里も照らす鏡を使う必要があろうか。
と言って、献上品を断ったのであった。
聞者嘆服。
聞く者嘆服せり。
そのことを聞いた者は、みな「さすがよ」とその清廉であるのを讃えたという。
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文正公・欧陽修「帰田録」より。
「能照二百里」について、呂蒙正は110キロの範囲のモノが映し出される、という意味に解しているようですが、普通に読めば光源として光を放射して80キロ先まで届かせることができる、と解されます。蝋燭も灯火も無しに強い光を得ることができるのですから、環境にはいいのでしょう。地球にお優しい鏡なのでしょうなあ。
明治のはじめに
私や蝋燭 芯まで燃へる
主はラムプか 口ばかり
という都々逸があるそうでございます(楳垣実「外来語」p166より)が、鏡の光ならば口さえも熱くなることなく、みな平和に収まっていくことでしょうね。