平成22年2月1日(月)  目次へ  前回に戻る

希代の扇動者・天草四郎が小西残党らに担がれて乱を起こしたとき二十三歳であったそうですが、それ以前、

十九まで道春先生の学校にありて学問し、孔門の子路をしたひて四郎と云ふときく。

「道春先生」林羅山のことです。

十九歳まで林羅山の塾にいて儒学の勉強をしていた。孔子の弟子の一人である子路(しろ)に憧れて、「四郎」(しろう)という名乗りにしたのであるそうな。

これは新事実ですね。天草四郎は巷間いわれるような切支丹ではなく儒者だったのですなあ。

これはわたくしが妄想したのではなくて、梅宇先生・伊藤長英が記していることである。

伊藤梅宇はご承知のとおり、堀河先生・伊藤仁斎の次子ですが、その外祖母(母方の祖母)が島原のひとで、島原の乱の際には八歳、一揆側との交戦で父と兄を討たれ、乱後に但馬の縁者のもとに引き取られたのだそうで、天草四郎のことはその外祖母から聞いた話であるという。

この外祖母のばばあの話の中で、そのとき生き別れになった生まれたばかりの弟との再会は泣かせる。また、

崑崙奴(くろぼう)多く船ばたへ水をくみにゆけるををそろしくをぼへたり。(※仮名遣いは昭和14年亀井伸明校訂の岩波文庫版によった)

黒い肌の下人たちが多数、船の側に水くみに来ていて、たいへん怖ろしかったことを覚えている。

など、一揆軍の背後にはやはり外国勢力があったのかなどの疑いも沸いてくるような記憶もあったようです。

天草四郎は幻術を使った。原城を包囲した幕府側の総帥・松平伊豆守のところに大きな菓子折りを送ってきたことがあった。

折のふたを開けてみると、蒸たての湯気の立ち上る饅頭である。しかし、さすがは「知恵伊豆」とあだなされた伊豆守、

不審なり。一口もくふことなかれ、すてさすべしときびしくをほせつけられ、それゆへ谷へすてけり。

「さてこそ面妖な。一口たりとも食うてはならんぞ。棄ててしまわねばならん」

と厳格に命じられたので、お側の者は谷に捨ててしまった。

その翌日見てみると、馬糞であったという。

なんともおそろしい幻術である。(伊藤梅宇「見聞談叢」第433条)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ところで、三国の呉の時代のことですが、ある商人が市場で瓜を並べて売っていた。そこへ杖を引きずった風采の上がらぬおとこがやってきて、

「瓜を一つ恵んでくれますまいか」

と言う。

「だめだ、だめだ」

商人は断った。

すると、おとこは

「せめて瓜の種でもいただけますまいか」

と言う。

商人はぎゃははとあざ笑った。

「種? 瓜が実るまでにおまえさんは飢え死にしてしまうぞ」

「さあて、わしが飢え死にすると瓜が実るとどちらが早いか・・・」

おとこはにやにやと笑った。

「よしよし、では一つだけ種を恵んでやろう。ありがたいと思えよ」

商人が瓜の種を一つ、おとこの掌に載せてやると、おとこは

「まことにありがたいことじゃ」

と言いながら、その種を道端にぽとりと落とした―――

俄而瓜生蔓延、生花成実。

俄にして瓜生じて蔓延し、花を生じ実を成せり。

あっという間に瓜が芽を出して蔓をはびこらせ、花を開かせ、実と結んだ。

何十という瓜の実が成ったのである。

おとこは

取食之、因遍給観者。

これを取りて食らい、よりて観者に遍給す。

その一つを取って自分で食うと、余ったものはまわりに集ってきた野次馬たちに分け与えてしまった。

瓜をすべてひとに与えてしまうと、おとこは、

「では」

と商人に声をかけて、また杖を引きずってどこかに消えて行った。

茫然としていた商人、ふと売り物の瓜に目をやると、

皆亡耗矣。

みな亡耗せり。

一つものこっていなかった。

そうである。このおとこは徐光といい、後に山中に入って名高い術者となった。

経済システムを崩壊させるおそろしい幻術である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「太平広記」巻一一九の所収話を明末の大文人・墨憨斎主人・馮夢龍(1574〜1646)が整理したものである(「古今譚概」巻三十二より)。もと「還冤記」という書に出るという。

 

表紙へ  次へ