平成21年 8月31日(月)  目次へ  前回に戻る

張傑、字は立夫、自ら号して黙齋といい、陝西・鳳翔のひとである。

正統六年(1441)、郷里の推薦を得て趙城府で訓導(学校の教諭)となった。この任期中に薛文清が趙城の町を過ぎることがあり、黙齋はこのとき弟子礼をとって入門を許された。

その後、老母の面倒を見ることを理由に退官して郷里に帰り、母の死後には、

年紀四十四、  年紀四十四、

此理未真知。  この理、いまだ真知せず。

昼夜不勤勉、  昼夜勤勉せずんば、

遷延到幾時。  遷延して幾時にか到らん。

 わたくしはもう四十四歳になりましたのだが、

 「ほんとうのこと」はまだよく知り申さぬ。

 昼も夜も学問に勤しまねば、

 だらだらといつまで経ってもこのままじゃ。

と詩を作って、以後出仕することなく学問と修身にいそしんだのである。なお、この詩は「責躬詩」(おのれを責めるのうた)といい、当時世間で口ずさむひとが多かった。

その後、

涵養須用敬、進学在致知。

涵養すべからく敬を用うべく、進学は知を致すにあり。

(心を宇宙の真理に)浸して養うには、敬(つつしむ)という方法を用いるべきであり、学問を進めていくのは、知を極限まで窮めていくしかないのである。

という北宋の程伊川の言葉を指針として日々に身を修め、古典を学ぶ生活を送っていた。

そのころ、段容思

聖賢心学真堪学、何用奔馳此外尋。

聖賢の心学はまことに学ぶに堪う、何ぞ用いんや奔馳してこの外を尋ぬるを。

孔孟の聖人・賢者より心に伝えてきた学問は本当に学ぶに堪えるものである(。ためになるし、楽しいではないか)。どうして(心の中から)飛び出して、外の世界のことを求めるような生き方をする必要がありましょうか。

と言って寄越したのに対して、

亦有今宵忘寝論収心。

また、今宵、寝を忘れて心を収むるを論ずるあり。

(そのとおりです。)今晩もまた、(外の世界のものに引かれてばらばらになってしまった)心を納めなおすこと(の必要性)について(若者たちと)議論して、寝るのも忘れることになってしまうであろう。

と答えたのは有名である。(孟子の「放心を求める」という修養論が下敷きになっています。)

やがて、黙斎の名を慕って地域の若者が学びにくるようになり、黙齋もこれに答えて「五経」すべてを教授したので、一時たいへん名高かった。あるひと、黙齋に著書して広くその学問を伝えるよう、開版のための資金を用意して勧めたが、

「自分はまだ老年ではなく、なお進むところがあると思う。それを待って著書しても遅くはありますまい」

と言うて肯んじなかった。

しかしながら、大器は結局大成を待たず、成化八年(1472)、五十二歳で卒したのである。

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「明儒学案」巻七より。

 

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