つい最近(←清の末、光緒の初年(1874)ごろ)、わたくし(←庸陂V人・陳子荘のこと)は金陵(南京)の太守・陳伯敏と会った。
陳太守も相当のお年であるがたいへんお元気である。
その元気の秘密を問うと、「いや、自分など大したことはない」とおっしゃる。
太守に言わせると、
「自分の知る中で最も長寿であったのは、北京の秋航和尚というひとである」
と。
和尚は囲碁が好きで、一時は「国手」と称されたほどであり、太守とは年の差のある「碁敵」であったが、
飲酒、食肉、無異乎人。
飲酒し、食肉すること人と異なる無し。
酒を飲み、肉を食らうこと、僧籍に無い普通のひとと同じであった。
しかしその年齢は同治二年(1863)段階で、
一百二十歳
だったというのである。乾隆九年(1744)の生まれだということになる。
さて、同治二年冬、陳太守は、江南の小さな州の知事として赴任することになったが、和尚は以前から南京郊外の西湖を見たいと思っていたので、是非にと同行したのであった。
足腰の丈夫な和尚のことであるので、太守(当時は知事)も特に何の心配もしていなかった。
年末に赴任し、その翌年正月早々に西湖を見物したあとの十四日、和尚は
将西帰。
まさに西帰せんとす。
そろそろ西の方に帰りますわい。
と言い出した。北京は西北の方ではあるが、広く西というのであろう。
知事は、はなむけに宴席を開くことにした。
宴席でも和尚は特に普段と変わりなく飲み食いし、また知事の幕僚の某氏と囲碁の対局を行った。
局終云、此会難再、即此局棋、猶是絶著。
局終わりて云うに、「この会再びしがたし、即ちこの局棋、これ絶著のごときなり」と。
一局を終えたとき、
「今回のような会合は二度と持てないでしょうなあ。だからこの一局が最後の一手ということになるのじゃ」
と言うたのであった。
が、北京に帰ればしばらく会えないし、和尚も相当の年齢で気弱になっているのだろうと思い、みな聞き流した。
和尚はその日の棋譜を自ら書きとめて、名残惜しそうに自室に引き上げて行ったのである。
翌日、上元(正月十五日のこと)の朝、秘書が大慌てで知事の公邸にやってきて、
忽報秋航已逝。
たちまち秋航すでに逝けりと報ず。
「秋航和尚は、す、すでに亡くなりましたあ!」と報告したのであった。
太守が和尚の室を見に行くと、和尚は
瞑目趺坐、双垂鼻柱至膝、其光亮如水晶。
瞑目して趺坐し、双垂の鼻柱の膝に至るに、其の光、亮として水晶の如し。
目を閉じて座禅を組んでいたが、二つの鼻の穴から鼻汁が出て柱のように固まって膝にまで届いていた。その鼻汁の柱はきらきらと光って、まるで水晶のようであった。
「本当である」
と太守はわたしを見据えながらおっしゃったのであった。
ちなみに秋航和尚は仏教のひとだから、仏教相伝の長寿の方法があったのかも知れない。
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清末の陳其元「庸闕ヨ筆記」巻九より。庸闕ヨはこのあとに仏教以外の長寿の方法もメモしておられるが、現代となってはあまり参考になりそうにないので省略する。