王阮亭「池北偶談」より。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
江西・永新県の禾山寺の近く、渓谷の一方の石壁に、巨大な二文字が刻まれていた。
その文字は、
龍 渓
であって、このあたりの川の流れがまるで龍のうねっているようだ、というので唐の時代にそう名づけられ、それを記念して彫られたのだという。
文字は、顔魯公の書である。
――おお、顔魯公ですか。
というひともおりましょうし、
――だれ、それ?
というひともおられましょう。
(――いや、どうでもいい。
というひとが一番多いかも知れんが)
なので少し紹介しますと、顔魯公というのは、顔真卿のことである。唐の名書家、特に楷書の名手として有名である。
が、古典チュウゴク知識人的には「忠臣」「名臣」としての評価の方が高い。安禄山の大乱が起こったとき、各州の知事が次々と反乱軍に降ったのに、片田舎の平原太守・顔真卿は孤立しながら抵抗を続け、その従兄弟で、一度は禄山に降ったが後に抵抗に転じ、乱中に壮烈な戦死を遂げた顔杲卿とともに、反乱軍を大いに悩ませた。
顔真卿の孤軍奮闘を知った玄宗皇帝は、
朕不識顔真卿何如人。所為乃如此。
朕、顔真卿の何如(いか)なる人なるかを識らず。為すところはすなわち此くの如し。
「朕はこれまで顔真卿という男がどのようなをひとか知らなかった。しかし、彼はこれだけのことをしていたのだ」
と、自らが人材を知らなかったことを大いに恥じたということである。
顔真卿は中央から孤立しての奮戦も涙をそそるですが、乱鎮定後、忠臣として奉られつつ権臣たちによって死地に追い込まれていく過程など、宮仕え的にはすごくかわいそうです。
が、今日は顔真卿のことが主題ではないので閑話休題。
・・・この文字、石壁に彫り込まれて
方広径丈。
方広にして径は丈あり。
四角ばって大きく、さしわたし数メートルあった。
という大きさのものであったが、どういうわけか、
数百年已来、石壁如故、而二字毎年輙徒下、今離地不二尺。
数百年已来、石壁もとの如きも、二字は毎年すなわち徒下し、今地を離れること二尺ならず。
数百年の間に、石の壁は以前と同じであるのに、この彫られた二文字は毎年だんだんと下がってきて、現在では地上50センチぐらいのところまで降りてきているのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上。不思議なこともあるものですね。