おエライ方々だけが偉いのではない。カシコい方々だけが賢いのでもない。
清の康煕年間、我が山東・済寧の町には、浮浪者の禿梁(とく・りょう、ハゲの梁さん)という男がいた。姓は張だということだが、どこの生まれか、どういう経歴なのか、誰も知らなかった。ただ、若いころから家も無くさまようて暮らしており、仕事の無いときは乞食して生きてきたらしい。
其頂無髪、自呼為禿梁、人亦以禿梁呼之。
その頂に髪無く、自ら呼びて禿梁と為し、ひとまた禿梁を以てこれを呼ぶ。
その頭頂部分には髪が無いので、自ら「ハゲの梁」と名乗り、他人もまた「ハゲの梁」と呼んだのである。
彼は、おそろしく腕力が強く、また声が大きいので、どこかの町の一角まで至れば、その町の外れでも
「ああ、禿梁が来ているようじゃな」
「声が聞こえるねえ」
とみなに知れ渡るほどであった。
禿梁は、銭があればそれで食い物を買って食った。余りがあれば人に食わせた。
ひとに雇われて力仕事をするときは、その賃料を多い少ないと言うたことがない。どうでもよいらしかった。特にどこかで橋を直すとか道路を開くといった公共のためになる工事があると、工賃の多寡に関わらず、すぐに飛んで行って働いた。
こんなふうであったので、ひとびとは長く彼のことを
愚かな働き者
だと思っていたのである。
康煕年間の終わりごろに、凶作で、大いに餓えた年があった。
禿梁も仕事を無くし、秋の終わりから遠く南の地方まで乞食に出かけたりしていたが、春先になると飢餓に苦しむ済寧の町に泣きながら帰ってきた。
ひとびと、その理由を問うに、
我思家遽帰、春人相食、棄嬰児満道。
我家を思いて遽(にわ)かに帰るは、春、ひと相食み、嬰児を棄てて道に満たさんとすればなり。
わしが、この町に大急ぎで帰ってきたのは、春になるとニンゲン同士がお互いに食べあい、赤ん坊は次々に道端に棄てられて、道端いっぱいに並んでいるようになるだろうからじゃ。
と言うた。
そのとおり、春になると種籾の類まで食べつくした貧家から子供が棄てられ、毎日のように嬰児が道端で泣いているのが見られるようになった。もちろん、棄てられたのはまだ運の良い子であって、そうでない赤ん坊は食べられたか食べ物として売られてしまっていたのであろう。
梁以二筐貯十数人、担之乞食、食之。
梁は二筐を以て十数人を貯え、これを担いで乞食し、これに食らわす。
梁は、二つの竹製の箱の中に、拾った十数人の赤ん坊を入れ、この箱を担いで乞食し、もらった食べ物でこの子たちを養った。
有死者、旋補之、五閲月無怠容。
死者あれば、旋(すみ)やかにこれを補い、五たび月を閲するまで怠容無し。
赤ん坊が一人死んでしまうと、彼はその子を棄て、すぐに別の子を箱に入れて、五ヶ月の間怠る様子も無かった。
五ヶ月を経て、夏にはようやく麦の収穫があった。
世の中が落ち着いてくると、子供を欲しがる家もあって、禿梁は担いでいた嬰児たちを順次手放したのであった。
ああ。禿梁は、飢饉の中、十何人かの子供を救ったのである。もちろん、彼の背の箱で、乳も無く死んでいった子供はその何倍かあったのであるが。
梁は普段飲酒せず、博打はせず、盗みをすることもなく、ひとと争うことも無かった。
ひとから何かをもらうとき、安価なものはもちろんであるが、高価なものをもらうときでも特に何の頓着もしなかった。
また、仕事を約束したときは、どんな風雨になろうが期限の時間を違えることは無かった。
たまに
有欲授以室者、笑而不答。
室を以て授けんと欲する者あるも、笑いて答えず。
「住む場所を与えよう」「ヨメをもらってみる気はないか」と声をかけるひとがあっても、笑って答えようとしなかったのである。
雍正七年(1729)、高密の地で病を以て亡くなった、というが、年は七十をはるかに越えていたと思われる。
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曾七如「漁洋夜譚」巻二より。
異史氏などが禿梁は道義的に立派なひとというべきではないか、と言い張ってみても、みなさまは「いや、でもこのひと、負け組だから・・・」の一言で終わりなのでしょうけどネー。