清・王阮亭「池北偶談」巻二十二より「梁尚書」
・・・明の終わりごろ陝西・河州の知事となった梁廷棟というひと、年齢は三十前後、色白で細面、あまり感情を表にする方ではなかったが、幼いころに怪我をして左の目が不自由であった。
この梁知事が赴任してくるというので、河州の官吏四人が州境まで出迎えに上がった。
ところが、
其一人望見梁公、股栗伏地。
その一人、梁公を望み見るに、股栗して地に伏す。
そのうちの一人、梁知事がやってきてその姿を見ると、股栗してそこにへたりこんでしまった。
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問:「股栗」(こりつ)とは何じゃ?
答:そのまま読めば、「また」の「くり」である。
問:「また」の「くり」とは何じゃ?
答:「また」にある「くり」である。すなわち・・・
・・・と、いう方に進んで行きますとどんどん間違った方向に進んで行ってしまいます。
漢書・巻三十八「高五王伝」(高祖の子供で王となった五人の伝記)に次のような記事がある。
呂后の死後、漢の重臣たちが呂氏の専制を破るクーデタを起こし、新しい皇帝を迎えることになった。
このとき、群臣らは、高祖の孫に当たる斉王ではなく、高祖の生き残っている息子で一番年長であった代王(後の文帝)を立てることにした。しかし、クーデタに参加すべく斉王はすでに軍を動かしており、その斉王に軍を引き返させる必要が生じた。
この仕事をさせられたのが魏勃というひとで、勃は斉軍の前に立って、
失火之家、豈暇先言丈人、復救火乎。
失火の家、あにまず丈人に言いて、また火を救うの暇あらんや。
火事の出た家をお考えください。その家では、火を消す前に、まずご主人さまの指示を仰いで、それから火を消すことにするのでしょうか。そんな余裕はございませぬ。われらが、殿下がお見えになる前に、呂氏を撃ち滅ぼしてしまったのもそういう次第でございます。
と言うた後、
退立股戦而栗。
退きて立ち、股、戦きて栗す。
引き下がって立ちすくんでしまい、両足はおののいてふるえた。
魏勃はこれ以上一語も発することができなかったが、斉軍はこれで治まった。しかし、クーデタを仕掛けた老将軍たちは、「魏勃は勇者といわれていたが、ただの男(「庸人」)じゃったな」「ひいっひっひっひっひ・・・」と笑ったという。
「戦栗」は「論語」にも見える言葉で、「戦慄」のこと。この「股戦而栗」が熟語になったのが「股栗」である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・閑話休題。
さて。
へたりこんでしまった男は州の警察を預かる武官であったが、その場で面会できなかっただけでなく、
比至、称病不謁。
比至、病と称して謁せず。
府庁に戻ってきてからも、病気だと称して出勤してこなかった。
梁知事はきわめて良識もあり、ほかのことでは決して怒りを表に出すひとではなかったが、この男の態度にだけは激怒し、
「必ずやよくないことを考えているに違いない」
と言い出し、その身辺を探らせた。
すると、この男が、当時江南で盛んであった反乱軍と手紙のやりとりをしていた証拠が出てきたのである。
知事は自ら弾劾状と判決文を作成してその男の死罪を決めた。
その男は都の刑部に控訴せず、死刑が確定した。
あるひとが、単なる手紙のやりとりに過ぎないのだから、控訴してみた方がいいのではないか、と勧めたのであるが、その男答えて言うに、
「わたくしはまだ若かったころ、ある山寺に宿を借りたことがございました。その寺の僧はかなりお金を貯めこんでおった。
吾以計殺而掠之、今三十余年矣。
吾、計を以て殺してこれを掠し、今三十余年なり。
わたくしは、ついついはかりごとをしてこの僧侶を殺し、お金を盗んでしまったのです。今から三十年以上も前のことじゃ。
頃望見梁公之貌、宛然僧也。又一目眇。吾死固矣。
さき頃、梁公の貌を見るに、宛然として僧なり。また一目眇たり。われ死すること固なるかな。
この間、お出迎えして梁知事のお姿を見たところ、その僧侶にそっくりであった。片方の目が不自由なのまで同じじゃった。梁知事の手で死を賜るのは定まったことである。
と。
この話は、梁知事の兄弟の孫に当たる梁侍御に聞いたことである。
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ひとを殺してはいけません。