清・王阮亭「池北偶談」巻二十より「劉雲山」
・・・康煕丙午の年(五年、1666)のことである。
杭州のある富商の幼い息子が熱病にかかり、危篤に陥った。
一人息子のことである。
富商夫婦は八方を手を尽くした。
が、もはやすべもなく、その子の命はもう今晩か明日の朝かと思われた・・・・。
と、
忽有一医到門。
忽ち一医の門に到るあり。
突然、ひとりの見知らぬ医師が、門番を通じて面会を求めてきた。
――こちらに病の児がいると聞くが、わしにも縁のある子である。診察させてはもらえまいか。
不思議な申し出である。一時代前の古めかしい衣服を着ており、どのような素性のものか知れぬ。
しかし夫婦は、藁をも摑む思い・・・いや、すでにもう手立ては無いであろう。摑む藁など無い、と思い切った方がよいのであろう。この子のためにすべきことはすべてしてやった、そう思うことで諦めがつくであろう。ほとんどそういう思いで、富商はその医師を招じ入れた。
医師は幼児の脈をとり、のどの奥を調べて、
投一匙。
一匙を投ず。
ひとさじの薬を調じて服用させた。
而霍然。
而して霍然たり。
すると、子供はすぐに危篤状態を免れた。
やがて落ち着いた寝息を洩らすようになり、次の日には頬に赤みがさしてきて、徐々に快方に向かった。
主人夫婦の喜び一方ならず、その医師に巨額の礼金を贈ろうとしたが、医師は礼金を断り、
我呉人劉雲山。他日尋我於毘陵之司徒廟巷。
我は呉人劉雲山なり。他日我を毘陵の司徒廟の巷に尋ねよ。
わしは呉の劉雲山という者でござる。いつの日か、毘陵の町の、司徒廟の区にお訪ねくだされ。
と言い置いて、姿をくらましてしまった。
一年後、富商は商談を取りまとめに旅に出、その帰りに、少し遠回りをして子供の命の恩人である劉雲山を訪ねようと、毘陵の町に立ち寄った。
しかし、その町に劉雲山を知る者はだれひとりもいなかった。
「いつわりの名をおっしゃられたのかも知れぬ・・・」
いまだ明が滅びて間もないころである。素性を隠して潜伏する明の遺臣といわれるひとたちもたくさんいた時代だ。劉雲山もそのようなひとだったとも思われた。
「またいずれご縁もあろう」
富商は町を出ようとした。
その途次、町外れの城門近くに小さな荒れかけた廟がある。そこには白い鬚の貧相な堂守の老人がいた。富商は、これを最後にしよう、と思いながら、その老人に
「ご老人、劉雲山というお医者をご存知ないか?」
と聞いてみた。
すると、老人の顔色が変わり、言うに、
「なんと懐かしい名前をおっしゃるものか。劉雲山はこの町に居を構えて、其の名は三呉に鳴り響いた名医でありました。
雲山死三十七年矣。
雲山死して三十七年なり。
雲山は死んで三十七年になり申す。
あなたはどこで雲山の名をお知りになられたか」
「さ、三十七年!」
富商はことの次第を老人に告げた。
老人は不思議のことと感じ入りながら、富商に、
「この廟はもともと劉雲山の寄付で建てたもので、司徒神と併せて堂には劉雲山の像を祀っております。有縁の方なればご覧いただくのがよろしかろう」
と言うて、埃まみれの堂内に招き入れた。
富商、堂内に入りて見るに、
其像宛然。
その像宛然たり。
その像は、確かに、昨年やってきた旅の医師とそっくりであった。
富商はそのお堂にあつく捧げ物をするとともに、その後も年々絶えることなく寄付を続けた。
その子は、成長すると家業を親類に譲り、誰に諭されたでもなく医の道に進んで、多くの人命を救うたということだ。
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イイハナシダナー