平成21年 7月 1日(水)  目次へ  昨日に戻る

 

清・王阮亭「池北偶談」巻二十より「鉄漢和尚」

 

・・・金陵(南京)の牛首山東麓に一石塔あり。

これには

両箇獼猴杖一根、  両箇の獼猴(びこう)一根に杖(よ)り、

献花石上独称尊。  花を石上に献じて独り尊を称す。

怪公事事能超脱、  怪しむ、公の事々によく超脱せるに、

留此贓私誤子孫。  この贓私を留めて子孫を誤れるを。

と刻まれている。

 二匹のサルが一本の木によりすがり、

 花を石の上に献上して、そこにいる者だけが尊いものだと称えている(かのようである)。

 これはどういうことであろうか。和尚はあらゆる束縛を超えていると思っていたのに、

 (サルから献上させた)こんな隠し財産を遺して、子孫(はいないはずだが)に(働かなくても暮らせる)間違った生活をさせようとしているのか。

「なんじゃ、なんじゃ」

「何言うとるんじゃ」

とワケのわからぬ詩句である。

実はこの塔は、清初の鉄漢和尚なるひとの墓である。

和尚はこの金陵・牛首山に何十年も世間との交わりを絶って一人で暮らしていた高徳の修道者であった。

「一人で暮らしていては身の回りの世話をする者もなく不便であったろうなあ。」

と思うかも知れませんが、実は、

蓄二猿子自随、有所須、猿輙解意。

二猿子の自随うを蓄え、須うるところあれば、猿すなわち意を解す。

二匹のサルが自発的に和尚の身の回りにおり、和尚が必要とすることがあれば、このサルたちは言葉にせずとも和尚の意思を理解して、その世話をしたのであった。

言葉にしなくても意が伝わるのであるから、為小先生(英名:ドリトル師)よりもエラかったのである。

和尚は世間との交わりをほぼ絶っていたが、ただ一人、金陵城内に住む方坦庵という文人とだけは親しく、彼がやってくると、二匹の猿たちとともに山の途中で出迎え、一夜の清談を尽くすのが習いであった。

後に和尚が化去する(僧侶が亡くなること)すると、同じ山に住む僧侶たちが火葬して葬ったが、

二猿悲鳴不食死。

二猿、悲鳴して食らわず、死す。

二匹のサルは悲しみの声をあげて食事をしなくなり、死んだ。

方坦庵はほかの僧侶たちと諮って、和尚の墓の傍らに、二匹の猿を葬ってやったのである。

その時に坦庵が題して刻んだ文字が、如上の二十八字である。

―――おさるさんでも仏法僧を敬うのである。やはり最後はみほとけにすがるしかないのであろうか。それにしても食らわずして死ぬとは、ハラが減ったことでしょうね。

 

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