右軍換鵞図
晋の王羲之、字・逸少と言いますと「書聖」といわれ能筆家として有名ですが、その豪奢、任誕、教養、風流、いずれをとっても六朝貴族の代表的人物の一人と言うべきである。彼は六朝随一の名家である「瑯琊王氏」の出身ですからプライドも人一倍であった。
右軍将軍の職にあったので、「王右軍」とも呼ばれますね。
王羲之は会稽内史となって赴任したとき、浙江・会稽の山陰の地がたいへん気に入り、ここに別邸を設けていた(「曲水宴」で有名な「蘭亭」もそこにあったのである)が、やがて上司に当たる楊州刺史として、もとから仲の悪かった王述(彼は「太原王氏」の出身である)が赴任してくると、その部下となることを潔しとせず、官職を辞してそのまま会稽・山陰の地に隠棲してしまった。
彼はその生前から能書として名声を得ていたが、気が向かなければ筆を執ることはなかったので、士大夫たちはその筆蹟を得ようと相争ったのだそうである。
さて、この王羲之、幼いことからどういうわけか鵞鳥が大好きであった。
山陰有一道士、養好鵞。羲之往観焉、意甚悦、固求市之。
山陰に一道士有りて好鵞を養う。羲之、往きてこれを観、意甚だ悦び、固くこれを市せんことを求む。
山陰の町の郊外に、一人の道士が住んでいて、彼がたいへんよいガチョウを飼っている、と聞いた羲之、いても立ってもおられず、早速行ってそのガチョウたちを観察した。
「なるほど、これはよいガチョウじゃ」
と王羲之は心がたいへんとろけ、
「是非このガチョウを売って欲しい」
と強く求めた。
しかし、道士もここまでガチョウを飼う男である。
「カネでガチョウが売れるか」
と反発した。だが王羲之は
「いや、是非お願いしたい。絶対」
とうるさいので、
道士云為写道徳経、当挙群相贈耳。
道士云う、為に「道徳経」を写さば、まさに群を挙げて相贈らんのみ。
道士は言うた。
「よろしい。ならば、「老子道徳経」を一篇、書写してくだされ。それをいただけるのでしたら、このガチョウどもひとまとめにして差し上げましょうぞ」
「道徳経」は今われわれが「老子」と呼んでいる書物のことですね。道教の方ではこの書を「経典」とし、上巻を「道経」、下巻を「徳経」、合わせて「道徳経」と呼ぶ。文字にして約五千字なので、単に「五千言」と呼んだりもします。
羲之欣然、写畢籠鵞而帰、甚以為楽。
羲之欣然として写し畢(おわ)りて鵞を籠して帰り、甚だ以て楽しと為せり。
「うひょう、ひとまとめにくださるのか」
王羲之は大喜びし、たちまちその場で書写を開始し、書き終わるとガチョウどもをカゴに入れて、「こんな楽しいことは無い」とうそぶきながら帰った。
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「晋書」巻八十(王羲之等伝)より。
この逸話を「右軍換鵞」といいまして、文人画の画題として名高いのである。今日はYA氏とともに五反田の薬師寺東京別院にお邪魔して写経してきた。