早く週末(終末でも可)来ないかのう。
ガチョウの話だけしているとニワトリが嫉むといけませんのでニワトリにちなむお話を一席。
――九世紀・・・というと中唐から晩唐にかけての時代ですが、四川地方に「費鶏師」(ニワトリの費先生)と呼ばれる人物があった。
そのひとの容貌でおそろしく特徴あるのはその目であって、
目赤、無黒睛。
目赤く、黒睛(こくせい)無し。
目が赤く、その中に瞳が無い。
というのである。
「ほんとかよ?」
と言うひとがいるかも知れませんが、この記述は珍しく伝聞では無く、文章を書いたひとが直接見たことだそうである。
この文章を書いているのは段成式(字・柯古)であるが、
成式、長慶初見之。已年七十余。
成式、長慶の初めにこれを見る。已に年七十余なり。
わたしが長慶年間の初めごろにそのひとを見たが、そのころにはもう七十を越えた年齢であった。
といっているのである。
長慶年間は821〜824年。ちなみに段成式は貞元十九年(803)の生まれですから、彼は二十歳前、高官であった父の段文昌に従って蜀にあったころのことである。
このひとが何故「費鶏師」と呼ばれるかというと、「費」はそのひとの姓であり、ひとのために禍を除いてやる仕事をしていた(すなわち祓除師)ので「師」であり、除災の儀式を行うに当って必ずニワトリを犠牲に用いたので「鶏」というのであった。
例えば病人を治療するのに、鶏を庭に一羽繋いでおき、
取江石如鶏卵、令疾者握之。
江石の鶏卵の如きを取りて疾者にこれを握らしむ。
長江のほとりからニワトリのタマゴのような石を拾ってきて、これを病人に握らせた。
乃踏歩作気嘘叱。
すなわち歩を踏みて気を作りて嘘叱す。
そして、特殊な歩き方で地面を踏み、体内に貯めた気を一気に吐き出して「えいや!」と声をかける。
すると、
鶏旋転而死、石亦四破。
鶏は旋転して死し、石また四破す。
ニワトリは「ゴゲゲー」と呻いてくるくる回りながら死んでしまい、病人の握っていた石は四つに割れてしまうのだ。
この瞬間に、師が集めた気が病人の体を通り抜け、病毒を消し去ってしまう。
・・・のだそうである。
費鶏師は段家にも呼ばれてやってきた。
段家の家人であった永安は「不思議なことなどできるものか」と嘯いていたが、費鶏師はその顔を(赤い目で)見るなり、
爾有厄。
なんじ、厄あり。
おまえには禍があろうぞ。
と言い、それを避けるために、というて、お札(「符」)を丸め、これを飲むように命じた。
永安はいやがったが、師が
「くわ!」
と怒鳴ると突然大人しくなって、師に丸めたお札を口に突っ込まれても為すがままにされていたのであった。
しばらくすると、師は永安にかけた術を解き、あわせて左足の靴と袜(バツ。靴下)を脱げ、と言う。
永安、不承不承に脱いでみて驚いた。
符展在足心矣。
符、展じて足心にあり。
お札は、広げられた状態で足の裏の真ん中に浮き出していたのであった。
また、滄海という家奴が居ったが、師はこの男に向かっては
爾将病。
なんじ、まさに病まんとす。
おまえは、もうすぐ病気になるぞ。
と言い、
令袒而負戸、以筆再三画于戸外、大言曰、過、過。
袒(かたぬ)ぎして戸を負わしめ、筆を以て戸外に再三画し、大言して曰く、「過ぎよ、過ぎよ」と。
もろ肌脱ぎにさせて背中に板戸を背負わせた。そして、筆でその戸の外側に二〜三の文字を書いてから、大声で「通過せよ、通過せよ」と怒鳴った。
すると、
墨遂透背焉。
墨ついに背に透れり。
墨は戸を透過して、背中に文字が書かれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「酉陽雑俎」巻五より。結局病気にならなかったかどうかは記録されてないので分かりません。「家人」の永安と「家奴」の滄海とはどのように身分が違うのであろうか、というのも気になりますが、あんまりそういうの気にしているとヘンになってくるから止めておきます。
・・・二日間楽しく暮らしているうちにもう月曜日が来る。「過!過!」と言っている間にはやく週末にならないものか。ああ。