明儒のこと。
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●薛敬之、字は顕思は、自ら号して思庵先生といい、陝西・渭南のひとである。
幼いころから姿美しくたおやかで、左の腕に刺青を入れたごとき黒いアザがあり、それが「文」という文字のように読めたので、郷里のひとびとみな、「いずれは立派な学者になるであろう」
と噂したそうだ。
五歳のころには書物を読むを喜び、同じ年頃の子どもと遊ぶのを好まなかったので、「道学」とアダナされるようになり、やがて遊学して遠く周小泉の門に入った。
成化二年(1466)に薦められて北京の太学に学んだ。(このとき同窓に陳白沙がいる。)
官吏としては遅咲きで、同二十二年(1486)に山西・応州の知事となったときには、既に五十歳を越えていた。しかし、それまでの無名の学士の名は、「応州知事」として、天下に鳴り響いたのである。
人民の産業に意を用いた結果、赴任後三年で、同州には四万余石の備蓄食糧ができた。この年、山西一帯は飢饉に襲われたが、応州のみは人民の流亡する者もなく、他州から三百余家が流れ込んだのである。
思庵は元からの住民と他州からの流民の間にいざこざが起こらぬように、流民らに食糧を給する一方で、年限を切って山間僻地を開墾させた。その技術指導も適していたから、応州には次々と新しい開墾地が作られ、ためにさらに税収も増えたのである。
時に州の南山に虎の害が起こり、人民は恐怖に陥った。(これも開墾の成果であったわけだが・・・)
思庵は
為文祭之。
文を為してこれを祭る。
山神への上奏文を作り、虎害の除去を神に祈ったのであった。
すると、彼の誠意に感じたのであろう、
旬日間虎死。
旬日の間に虎死す。
十日ほどの間に虎どもが全滅しているのが発見された。(もちろん、彼は神に祈りながら、一方で虎退治のために府の軍卒を動員したのである。)
またあるときは突然、平地に泉が噴出し、新たな開墾者たちの村が一村すべて水没しようかという災害が起こった。思庵は、すぐに江南から水利工事の専門家を呼んで排水路を作らしめ、この用水路によって広大な荒地を肥沃な地に変えた。
用水路の完成の際には、州知事の思庵は水神を祭る儀式を執り行った上で、新しい溝に水を流したのだが、そのとき、
洩声如雷鳴。
洩声雷鳴の如し。
水の流れ出す音、まるで雷鳴のようであった。
殷々として州中に鳴り響き、人民たちは知事の徳に水神が応えたのであろうと噂しあったという。
思庵の治政はこれら赫々たる成果をあげ、皇帝から
天下第一
の評を得たのである。
王陽明が用兵家として評価が高かったように、薛思庵は地方官として令名を謳われたのである。
その後、府知事に昇進してここでも令名あったが、致仕して郷里に隠棲し、正徳三年(1508)に卒した。年七十四であった。
周小泉の門下にあったころ、
常鶏鳴而起、侯門開洒掃設坐。至則跪以請教。
常に鶏鳴にして起き、門の開くを侯(うかが)いて洒掃して坐を設く。至ればすなわち跪きて以て教えを請う。
毎朝、ニワトリが鳴くと同時に起き出して師の塾の門前まで行き、門の開くのを待っている。(下僕が)門を開くと早速入門して、講義室を水拭きし掃き清めて先生の座をしつらえ、先生がお出ましになると正座して講義を聴いた。
というのであるから、その精励のほどが知れるであろう。
●周小泉の門下には今一人逸材があった。陝西・咸寗の李錦、字は在中、介庵と号したひとである。
薛思庵とほぼ同年輩であるが、彼より早く、天順六年(1462)に太学に入った。当時の大臣であった邢譲が事に座して獄に下されたとき、その無罪を訴えて太学の六つの学館の学士たち(「六館之士」)が皇居門前で直訴した事件があったが、介庵はその際の指導者として北京中にその名が轟いたのである。
その後、官に就くことなく郷里に帰り、農を事としていた。父の喪に服していたとき、あまりに貧しく、葬式を出せない(その間、死者は仮モガリの状態で家の中に安置され続けるのである)という状態であった。このことを人づてに聞いた知事が、棺にするための材木を贈って、ようやく葬儀を行うことができたという。
葬儀の後、棺を作って余った板材をわざわざ自ら知事の公邸に持参してきて、篤く礼を述べるとともに
不可因喪為利也。
喪によりて利を為すべからざるなり。
服喪のことで儲けた、などということがあってはなりませんから。
と言うて板材を置いて帰った。
「さすがは六館に冠たる士であることよ」
と知事は感じ入ったということだ。
その後、薦めるひとがあって地方官になったが、就職してすぐに亡くなった。成化二十二年(1486)であり、年五十一であった。
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「明儒学案」巻七より。