沖縄観光記8 (起:平成25年3月8日(金))  目次へ  平成25年1月へ

とりあえず全勝さんとMTO氏には気づかれたようだが、やつらには気づかれていないぜ、わははは。

←軽躁状態の間に何かのメッセージを感じ取りたいのだが・・・。

平成25年3月

1日

博物館。
←琉球線刻文字。どうみてもUFOぽいのもある。

2日

出張中。石垣島。
←石垣牛が飼われていた。柵の中で。屠られるその日まで自分は自由だと思っているのだろう。おれたちのように。

3日

出張中。おとおり島。おとおり酷い。ぼろぼろに。

8日

本日お昼ごろから軽躁状態となる。日曜日ごろまでもつか?

先月〜今月はなかなか観光ができなくて辛いんですわ。観光目的で沖縄に来ているので観光させてよ。

今日は県立博物館でマリー=アントワネット展を観覧。いつものように大河ドラマ方式で歴史を消費しておられた。この40年で、「マリーアントワネットの悲劇」の一つであった「身体に欠陥のあった優柔不断の夫ルイ16世王」が「優しく家庭的、趣味と家族を大切にする父親」に作り替えられたのには哂う。もちろんルイ王ではなく、歴史消費者を。そして彼らを操るイベント屋を。そのお抱え歴史家を。

9日

伊計島調査

与勝五島の北端、伊計島を調査す。海中道路を通して車で行けるのである。

○伊計城・・・イチーグシク。陶磁器その他グスク時代の遺品発見されておるとのこと。断崖墓は認められたが城内に登る方法は発見できず。朝鮮の「海東諸国紀」(1471編)では「池具足城」と表記されている。

←伊計城。海中に突き出している(グスク時代には独立島であったよし)。・・・あれ?この形は・・・二上山、筑波山、前方後円墳・・・。

○伊計ビーチ

○仲原遺跡・・・2500〜2000年前といわれる縄文末期並行期の集落遺跡。国指定遺跡なり。住居壁に石灰岩を用い、屋根高の低い竪穴住宅が一戸だけ復元されていた。もっと復原されたが台風で上が飛んでしまっているようである。

←左側の住居跡だけ復元状態。中にも入れるがハブいるとコワいので入らず(屈んだときに腹がつかえるし)。

○犬名河(いんながー)・・・濡れて戻ってきた犬を見て発見した、という海岸断崖下の湧泉。近代になって簡易水道ができるまで、伊計島の唯一の水源で、断崖を上下せねばならぬ水汲みがつらいので伊計島にヨメに行くのは嫌がられたという。現在はコンクリで覆われているが、水量は豊富そうであった。

断崖途中から、金武湾に日光が激しく反射するのが目に入り、何ごとかメッセージを伝えるかのように激しく揺れていた。が、わたしは霊性が鍛えられてないのでメッセージわかりませんでした。

←激しく動いていたんですわー。

このあと「大砲陣地跡」というのを訪ねようとして、すごいコワいそうなところに到達してしまう。「ネノカタさま」があったのだ、といえばわかる人にはわかるであろう。

○ヌンドゥンチ ・・・鳥居付き。伊計巫家の席は「あがりみや」と呼ばれたそうで、ここでは

毎年、三・八月、四度御物参之有祈願。(三月と八月に、四度、オモノマイリの祈願があった。)「琉球国由来記」巻十四

なお、伊計島にあったという御嶽は以下のとおり。

・セイジノ嶽  神名:ヨキキヨラノ御イベ

・アムキノ嶽  神名:ヤアノ御イベ

・城内之イベ  神名:タケキヨラノ御神

←ぬんどぅんち。ここもそうですがほかの遺跡類も平成5年に大阪の山根さんというひとの寄附で修復、再建されている。

○伊計神社・権現堂、神アシャギ

←伊計神社。なお左手の小さな鳥居は弁財天社。左端に一部だけ写っている建物は権現堂。

○瑞泉碑(簡易水道)

○伊計勇士の碑・・・日露戦争(1人)、大東亜戦争戦死軍人・軍属等を追悼する碑。コドモらが祈っていた。裏手砂浜。おそらく?海祭を行うのであろう海に面した鳥居状のモノなどあり。

←鳥居状施設。

←鳥居状施設から見た正面の海。宮城島東端の「とぅんばら」(離れ岩)が見える。

←これは伊計島北東端にある「ビッグタイムリゾート伊計島」の建物。廃屋状態となっている。このあたりに「ウシトラガマ」があったらしいのですが・・・。

10日

津堅島調査

キャロット愛らんど:津堅島へようこそ。勝連半島先っちょの平敷屋港から神谷フェリーで約30分。

←この船で行きます。船腹にはキャロットの図が。

○ホートゥーガ ・・・「鳩井」の意という。ハトの羽根が濡れていたので掘ってみたら泉が湧いた、という伝説を持つ。海岸断崖の下にあり。行ってみたら、男女和合の像が祀られており、禱れば子宝を賜うという。

おそらくこのホートゥーガ前面の岩がはじめてムラ建てした喜舎場子が足掛かりにしたという「津堅瀬」であろうか。

←下部の穴が「ホートゥーガ」。右上部の祠に男女和合像あり。

←ホートゥーガ前面の海。いかにも神のアシアゲっぽい岩が。

○クバウグスク・クバウウタキ ・・・クバをはじめとした木々の原生林を進むうちに、クバウグスクと呼ばれる岩場の麓に出る。ここはまたクバウウタキでもあり、拝所施設もある。ちょっと小道があったので進んでみたら(蝶がイマシメたのに)、すごいコワい場所の前に出たので、逃げるように戻った。いやー、これはコワいわ。おそらく入ってはイケないところだと思いますよー。小道に入ってはいけませんよ。

←昼なお暗い感じのクバの森。

○クラチャガー ・・・「蔵下井」の意。王府時代に年貢をしまっておく蔵の下の方に当たるからであるという。

←クラチャガーを降りたあたりの海岸。このあたりにも神は上陸しているかも。

←泊浜方面から今来た方を見る。いかにも陽神っぽい岩が見えますねー。

○泊浜 ・・・美しい。

○中之御嶽 ・・・公園化されているので拝所まで入ってみたら、近くから原因不明の「どーん」という低い音が聞えてびびった。炎天下であったから不思議な世界にだいぶん足を踏み入れていたのであろう。どういうところかはこちらを参照→日録

ちなみに「琉球国由来記」(巻十四)によれば津堅島にある御嶽は以下の四か所。

・国森嶽(くにむい) 神名:イシヅカサノ御イベ

・コバウノ嶽  神名:木ヅカサノ御イベ

・中ノネタテ嶽  神名:イシヅカサノ御イベ

・ヘカルアマミヤ嶽  神名:木ヅカサノ御イベ

←中のウタキ。

○ヤジリ浜 ・・・ぐるっと歩いてみた。今日は穏やかであったが、時には激しい波が寄せるのであろう、コンクリの巨大な護岸施設がひっくり返ったりしていた。

←ヤジリ浜。前方のはアフ岩。

○津堅ぬんどぅんち 

○キャロット展望台

←展望台の勇姿。

○アラガー ・・・産井。

以上、約3時間。島ニンジン500円分買ってかえる(分売してくれないので)。かなりの量である。

その後、

○泡瀬(あわせ)のビジュル様に参詣。

←一の鳥居・二の鳥居とあるから「二礼二拍一礼」でお詣りしちゃったよ。

南部まで行ってユインチホテルの佐敷猿人の湯に入って帰ってきたさー。久しぶりで納得の休日。

15日

○県立博物館 ・・・新コーナーの那覇港と唐手のコーナーをチェック。明日明後日の深夜までえらいさんの随行。うつです。おとおり文化を味わうことになるらしい。今の職場は「土日ご苦労さま」の前に「あれがしてない、これがしてない」というんで、もう次のしごと探してるんですけど・・・もちろん沖縄で。

16日

エライひとともに宮古島。おとおり○ゴクにはまる。

17日

同上、下地島から石垣島、本島に帰る。

19日

16日土曜日のおとおりの被害もようやく癒えてまいりました。今日は午後4時ごろから早退。牧港で所用を果たした後、牧港近辺調査を敢行。

○牧港のティラのガマ ・・・ここに源為朝が本土に帰って後、その妻(「球陽」によれば大里按司の妹という)と二人の間の子の尊敦(そんとん。後の舜天王であるという。ちなみに「椿説弓張月」では為朝の子は「舜天丸」(すてまる)と称す)が身を潜めていたのだそうである。身をかがめれば洞中に入ることができるが、中はなお自然洞らしく鍾乳石が天井に残り、奥に拝所あり。ただしコワいので階段の一番下まで行って拝んで戻ってきた。

←中央部の穴に向かって階段を下りていけるのである。

今はあとかたも無いが、洞の出口あたりはかつて牧湊之殿(まちなとぅぬとぅん)であったという。

「琉球国由来記」にいう、

牧湊之殿   稲二祭りの時、花米九合完、五水六合完、神酒一完(牧湊地頭より)、五水六合完、神酒二完(牧湊村百姓中より)、これを供す。浦添巫にて祭祀なり。

○港川村代御宮 ・・・港川村の拝所を合祀したものと思われる。

←公民館を目当てに行ったら「代御宮」あり。

祠中に祀られている石に刻まれてあった神名は以下のとおり。

タキグサイ  トングサイ  ミヤグサイ  ウビイ  井戸神  りうぐ神  のろ神  地頭火神  火の神

○城間の拝所 ・・・御嶽かと思われるが確認できず。いずれにせよ戦前の城間村の集落はこのあたりにあったよし。※

←たいへんなゲゲゲ状態。左方向に米軍基地あり。手前は駐車場になっている。

※その後の調査により、このあたり「アマカケノ嶽」の一部であったかと思われる。

「琉球国由来記」巻十四   アマカケノ嶽  城間村    神名 マネヅカサノ御イベ

20日

○識名園 ・・・王さまが冊封使をもてなすために造った庭園。御殿等沖縄戦でぶっ壊されたが復原。とにかくこれで「世界遺産」カード全部そろったー!(その後、自己審査により玉御殿訪問は20年前(世界遺産指定前)であることから、玉御殿にはもう一回行かないとダメ、とされた)

←左の赤瓦が御殿(うどぅん)、右の池の中の島に立っているのが六角堂。柳宗悦が激賞したという。

←同じ場所から左手を見ると、大小二つの石橋があり、激賞されておる。

沖縄戦でぶっ壊れたが、修復された。

○識名宮 ・・・琉球八社の一。すでに一度お邪魔しているが、近くまで行ったので改めてお詣りに寄ったら工事中で、ちょうど社殿が壊されていた(建て替え中)ので社殿背後の洞穴が丸見え。たっぷり拝んで帰って来ました。調べんちゅの役得ですわ。毎年一月十五日にだけ中に入れるらしいのです。

←赤い柵の向こうが洞窟。

○石田のガマ ・・・私有地。

23日

エライひとのお供で、美ゅら海水族館、今帰仁城、第五回沖縄映画祭オープニングセレモニー(宜野湾コンベンションセンター)を観てきましたよ。しごとで無ければ楽しいところばかりなのに〜。

24日

せっかく浦添市営球場行ったのに・・・ →観タマ

しかたないのでその足で、浦添市民体育館で開催中の「沖展」観に行く。知り合いの画家(←女流!)の出品を観たがほかの多くの画家さんたちと同じように「オスプレイ」が入っていたのはちょっとびっくりした。オスプレイの造形はアーティスト的には魅力的ではあるのでしょうし、今、沖縄タイムス主催の「沖展」ではウケがよろしいのかも知れません。けれど「オスプレイ」は政治的シンボルでしか無く、人の生き死にとも宗教とも関係が無いので、十年経てば何だったかみんな忘れてしまうよ。油で絵を描く人がまさか十年程度しか先を考えていないなんて。ねえ。

その後、海が見たくなって泡瀬の海を見に沖縄県総合運動公園へ行ったぜ。空も晴れてきたので、津堅、久高も遠く見えた。

海が見れたので、小市民的にはよかったでちゅうー。

←よかったでちゅー。明日会社イヤでちゅー。

30日

南大東島調査を敢行す。

○島まるごとミュージアム(ビジターセンター)

○文化センター ・・・資料館。巨大鉄瓶、為朝凧、江戸相撲など八丈の文化的影響強い。

いわゆる大東紙幣(玉置札、東洋糖業札、日糖札)の展示あり。農具類は全国どこも共通。1951〜64年の土地所有権闘争関係写真類など。

←センター横に展示されているシュガートレイン(サトウキビ運搬トロッコ鉄道の牽引車)。隣にはディーゼルもある。昭和58年まで、島中を走り回っていたよし。

キャラウェイ高等弁務官を囲んだ直訴大会では、みんなでコカコーラ飲んでいた。センター前の公園にキャラウェイ氏胸像あり。大東では英雄である。

○バリバリ岩 ・・・秘境である。すばらしい。

←上の方が写りませんが、すばらしいところですよ。

○漁港 ・・・迫力あり。

○西港

○上陸碑 ・・・もとのものは木製であったため、昭和5年に建て直された。一番右は最初の上陸を記念する碑、真ん中のは最初の上陸時の船長(後に沖縄近海にて暴風雨により難破、死亡)、初代の玉置事務所所長を顕彰する碑、左側のは(思い出したら書きます)の碑。

○地蔵尊 ・・・どの地蔵も古拙愛すべきものばかりである。

←が、直接写すとコワい(←コワくないと思いますが)のでこの角度から。

○大池オヒルギ群落 ・・・国指定天然記念物。かなりのゲゲゲに感動。

○大東神社 ・・・幽邃にして静寂。祭神は天照大御神とのこと。境内に金刀比羅宮、沖縄型拝所もあり。

相撲場あり。「江戸相撲」と「沖縄相撲」の各年優勝者の名札がずらると並ぶ。両方を制している者も何人かあり。

巨大なるクモあり。また森の奥に井戸あり。ちょっとコワい。

←静謐。昼間大池の方に棲息しているダイトウコウモリが夜になると大東神社の森に移ってくるという。

○海軍棒・島東部植物群落

○日の丸山展望台 ・・・電波探索隊跡地でもある。

○玉置半右衛門顕彰碑 ・・・撰文は志賀重昂。

31日

○秋葉洞地底湖探検 ・・・ツアーに参加。すばらしい。

○星野洞 ・・・すごい。感動した! 

 ←こんな感じ。

その後、時間があったのでまた雨上がりの大池オヒルギ群落、バリバリ岩で座り込んで時間つぶす。ついでに北港見て来た。

 

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