今日も軽躁状態にて海を見てきた。おいらも海を渡ってでかいことがしたいぜ。
・・・・・・・・・・・・・・
むかしむかしのことでございます。
中城郡喜舎場村(きしゃば・そん)に男あり、名を喜舎場子(きしゃば・し。「喜舎場のおとこ」の意。ミスター・キシャバですね)という。
一日、登喜舎場嶽以為遊観間、見東海一洲。
一日、喜舎場嶽に登りて以て遊観の間(かん)を為すに、東海の一洲を見たり。
ある日、彼は、地元の喜舎場山(←今は基地の中)に登って、ゆったりと心を遊ばせて遠くを眺めたところ、東の海に一つの島があるのを見つけた。
そこで、妹の真志良代(ましらたい)を呼び寄せ、そっと耳打ちして言うに、
我見彼海中之一洲、即人可住居之所也。後年必可建村邑。早与汝共航于彼洲、始為住居如何。
我、かの海中の一洲を見るに、即ち人の住居すべきのところなり。後年必ず村邑を建つべし。早く汝とともにかの洲に航し、始めて住居を為さんとするに如何。
「おれがあの海の中の島を見たところでは、あそこはニンゲンの住めるところだぜ。いずれ誰かがあそこに「村建て」するにちがいない。どうだ、早いとこおまえとおれとであの島に舟で行き、最初のニンゲンとして暮らそうじゃないか?」
真志良代、答えていうに
「あたいも行くよ」
と。
「よし、それじゃあ約束しようぜ」
約束し、七日の間、斎戒沐浴してから、
二人相共泛舟求彼洲、以為住居、至今子孫綿綿以致繁衍。
二人あいともに舟を泛べて彼の洲を求め、以て住居を為し、今に至るも子孫綿綿として以て繁衍を致せり。
二人ともに舟に乗ってその島に渡って、そこで暮らした。今(18世紀)に至るも、彼らの子孫がめんめんと綿糸のようにつながって増殖しているのである。
この島が今の津堅島である。
沖縄では兄妹(ゑけ・をなり)の仲はなかなか余人の割り込めぬところがあるのである。
さて、この島にはまず「津堅瀬」と呼ばれる岩がありまして、これは
喜舎場子渡海来到時始蹈此石以入其島。
喜舎場子の渡海して来到せる時、始めてこの石を蹈みて以てその島に入る。
喜舎場子が海を渡って来たとき、最初にこの石を足掛かりにして島に入った、という岩である。
と言い伝えられておるそうです。
また、「祭瀬」と呼ばれる岩があり、これは
真志良代始蹈此石以入其島。
真志良代の始めてこの石を蹈みて以てその島に入る。
真志良代が来たとき、最初にこの石を足掛かりにして島に入ったのである。
と伝わっております。
沖縄では、海を渡って来た「神」が上陸するときの足掛かりにした、という「ムラの地先の大きな岩礁(離れ岩)」を「キョウ」と呼ぶ(地域によっては立神(タチジャミ)、さらに遠く離れているものは「トンバラ」ともいう)のでございます。霊地の多い首里も「キョウ」と呼ばれます。一般知識人のみなさまは「京」の字を当てて納得しておるようですが、「気(キ)覆う」と同根の言葉ではないか、という知識人もおられます(久手堅憲夫説。「増補改訂 地名を歩く:奄美・沖縄の人・神・自然」南島地名研究センター2006所収)。
あるいは「アダ」と呼び、「アシャゲ」(神の「足あげ」。「足あげ」は「足を上げて座る」ところを指す)のことである、ともいう。
閑話休題。
喜舎場子と真志良代は後に天寿を終え、ともに
遂葬于中之御嶽。禱之必応、故至于今以為崇信而厳禁男女入其内。毎有許願、必在其外恭供祭品致拝祭礼云爾。
遂に中之御嶽に葬らる。これに禱らば必ず応ず、故に今に至るも以て崇信を為し、而して男女のその内に入るを厳禁す。許願あるごとに、必ずその外に在りて祭品を恭供し、拝を致し祭礼す、と爾(しか)云う。
最終的に(泊浜の)ナカノウタキに葬られた。
このウタキは、禱れば必ず効果がある、というので、今(18世紀)に至るも村人らは尊び信じている。そして、男も女もこのウタキの空間(境内)に入ることは厳に禁じられている。願い事があると、必ず聖なるウタキ空間の外からお供え物を捧げて、拝み祀るのである、といわれている。
「入るな」と書いてないから本日境内に入ってしまいましたよ(公園になっていたので)。マズイかも。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「遺老説伝」巻三「喜舎場子」より。津堅島には多くの貝塚遺跡があり、グスク時代以前から、北から海沿いに来た人たちが住んでいたらしいので、喜舎場子とその妹が最初の住民がどうかは確かではございませんが、今も多くの人たちが中之御嶽を信仰しているのだそうでございます。
明日は3.11の二周年ですが、北朝鮮は同日より朝鮮戦争の「休戦協定」を無効にする、とも言っておられます。いよいよか。休もうかな。