李白吟行図。彼は実家が西域商人でお金持ちだからいいよね・・・と大人になると妬む心も沸いてくるのでございます。
まだ水曜日である。
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清のひと呉修齢先生がいいことを言っております。
意喩之米、文則炊而為飯、詩則釀而為酒。飯不変米形、酒則変尽。
意はこれを米に喩うれば、文はすなわち炊きて飯と為り、詩はすなわち醸して酒と為れるなり。飯は米の形を変ぜざるも、酒はすなわち変じ尽くす。
「思い」をコメに喩えると、「散文」はすなわち炊いてごはんにしたものであり、「詩歌」はすなわち麹を入れて醸してお酒にしたものである。ごはんの方はコメの形が失われていないが、お酒の方は変化してしまって原型はかけらも遺っていない。
しかるに問題は、
啖飯則飽、飲酒則酔。酔則憂者以楽、喜者以悲。
飯を啖えばすなわち飽き、酒を飲めばすなわち酔うなり。酔えば憂うる者は以て楽しく、喜ぶ者は以て悲しまん。
ごはんは食べているうちに腹いっぱいになってきて、そこで終わりになる。お酒は飲んでも飲んでも酔っ払うばかりで終わりがない。酔っ払うと、憂いに沈んでいた者は変に明るくなり、楽しげにしていた者が今度は悲しみに沈んでしまう。
有不知其所以然者。
その然る所以(ゆえん)を知らざるもの有り。
どうしてそうなるのか、理由がわからない部分もありますなあ。
また、李安溪先生が言うには、
李太白詩如酒、杜少陵詩如飯。
李太白の詩は酒の如く、杜少陵の詩は飯の如し。
李太白の詩はお酒のようだ。(長安郊外の)少陵(出身)の杜甫の詩はごはんのようだ。
呉先生と李先生、
二公之論詩、皆有意味可尋。
二公の詩を論ずる、みな意味の尋ぬるべき有り。
お二人の詩についての論には、どちらにもよくよく考えてみるべき中身があります。
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「茶余客話」巻十一より。ツラいことばかりなので、お酒を呑んだら楽しくなるのだろうかと思っても、心配事が増幅されるばかりなのである。
抽刀絶水水更流、 刀を抽きて水を絶つも水はさらに流れ、
挙盃断憂憂更愁。 盃を挙げて憂いを断つも憂いはさらに愁う。
刀を抜いて水を切断しようとしても、水は切断されることなく流れ続ける―――当たり前のことだ。そして、同じように、
さかずきを挙げて酒を煽り、憂いを絶とうとしても、憂いは絶たれることなく、さらにわが心を苦しめる!
と李太白が既にカッパしているとおり。
詩でも吟じてから眠りにつこうかと思うのだが、詩はお酒の如きものなので、やはり憂いはさらに憂うばかりであろう。已むにしかざらん。